おやすみ

□たったふたりのおしまいに
1ページ/1ページ

 










はじめてあいつからその言葉を聞いたのは
確か、あたしが忍たまでいうところの四年の位の夏だったと思う

浅葱色の制服に身を包んだあいつが口にしたそれは
何故だかとても、本当にびっくりするくらい簡単に零れ落ちて
そのくせ五文字の、たったこれだけに収まってしまうその想いは
鉛のように重たく重たく、心の臓へとのしかかった

いつものようにからかっているのかと聞けば違うと言い、三禁を知らぬのかと言えば否と言う
しかし否定されればされるほどあたしにはそうとしか思えなくて
あいつの気持ちが本物であるとわかればわかるほど
あたしの中の予防線は深く厚くなっていった


「二度とお前の口からそんな言葉は聞きたくない」


あいつをそういった目で見たく無かった
特別が増えていくほど、失ったときに起き上がれないことを知っていたからだ
あいつがあたしを置いていかない確証はどこにも無い
いつだって辛いのは取り残されるその方だ
離された手が虚空を彷徨う悲しみを、棄てることすらできない痛みを抱え蹲る意味を
どれひとつ知らないで生きてきたであろうあいつの気持ちは、あたしにとって嫌悪の対象以外の何ものでもなくなっていた

あいつは反論することも、激怒することも、悲しむことさえしなかった
元から感情を化粧の下にひた隠しにするような奴だったから
もしかしたら素顔の中ではそれをしていたのかもしれない
本当のところはどうなのか、あたしは知らないし今更知りたいとも思わない
だが、まだうっすらと幼さの残る変声前の声はただ一言ーーー『私では駄目ですか』と
ただそれだけを紡いで真っ直ぐな目をあたしに向けたのは確かだった

答えになっているかはわからなかったが
ただそれでも、あたしは言わずにはいられなかった


「何も知らないくせに」




***




それからというもの、あいつは本当にそれっきりあれを言い出すことはなくなった
その代わりに、あいつは姿を変え声を変え、言葉では無い別の方法を使いあたしにその気持ちを伝えるようになってきた

ある時は同年の会計委員に、またある時は学園一の自惚れ屋に、
わざわざ制服を変え顔を変え、話し方までそっくりそのまま真似しては
あの五文字を匂わせる甘い態度であたしを絆す

勿論あたしは激怒した。あれ程やめろと言ってまだわからないのかと、そんなものであたしが騙されると思ったのかと
散々酷い言葉でなじっては冷たい態度で追い返してやるというのに
懲りずにあいつは、にこにこと笑顔であたしに擦り寄ってきた

長い指が柔らかく髪を梳いていき
優しい声色が鼓膜を撫ぜ、存外逞しい体に覆われるように抱きとめられ
黒い瞳がそれはそれは優しい色を帯びてあたしを見た
全く別の、あいつではない誰かの皮を被って

そこまでしてあたしに執着する意味があたしには理解できなかった
自分の気持ちを拒絶され、本当なら憎んでくれたって構わないほどにお前を傷つけただろうに
そんなあたしを、何故そうまでして繋ぎとめておきたいのか
一度だけそう問えば、あいつはやはりにこりと別人の面を笑顔に歪め
愛おしそうに、あたしの頬を撫でるだけだった

それが一体どんな感情で出された行為なのかはやはりあたしにはわからない
ただ、あいつがそれでいいというのなら
あたしはその気持ちを存分に利用するだけだった

薄灰色の寒空の下、はじめて自分からあいつの手を取り
氷のように悴んだそれを溶かすように握りながら
あいつが真似たあいつではない誰かの名前を呼んだ
これが、丁度五年の冬頃の話




***




めまぐるしく移り変わる景色の中で
思えばいつしか、あたしは最上級生に
あいつも変装名人としての名を馳せるほどの月日が過ぎていた
日に日にあいつの仮面は精巧になっていって
本物と殆ど遜色の無いそれは、あたしの中からあいつという存在を薄れさせるには十分すぎるほどの威力を孕んでいた

最早そこに罪悪なんてものは欠片も残ってはおらず、
あたしは毎日のように代わる代わる違う誰かに甘美なそれを与えられては
抵抗することなく、しかし、苦しくなるほど溺れることのないように
ただただ雨の中に放り出された水桶のように降り注ぐそれを受け止め続けた
麻酔が痛みを消すように、この薄気味悪いくらいの甘ったるい日常が
あいつの姿を頭から消していくのを
じわり、じわり、感じながら




そんなあいつが今日、死んだという
切羽詰まった様子でそれを報告にきてくれた後輩の言葉は、まるで夢の中で聞いているように現実味が無い
冗談だと思った。何かの、悪い冗談だと
きっとあいつはひょっこり顔を見せて、
いつものようにあの巫山戯た芝居を繰り返すんだと

しかし現場に行けば確かにあいつはぱたりと人形のように倒れていて
玩具のような赤い血液が、べったりと群青の衣を染め上げている
寒空の下、灰色の雲からはらはらと淡雪が散るような日
去年あいつに質問をした、あの時と同じ冬だった


「三郎」


久しぶりに呼んだあいつの名前
あの五文字を紡がれたとき以来、ずっと口にしていなかった本当の名前
出したはいいが不意にあたしを襲ったのは、妙な不快を示す違和感だった

何故だろう。あれ程毎日一緒に居たというのに
確かに隣に居たのは、紛れもなく鉢屋三郎だったというのに
仮面を付けず事切れた三郎の顔は全く知らない他人のように思える
鉢屋三郎とは、一体どんな顔であったか
あたしの頬を撫でたのは、髪を梳いたのは、優しい目を向けたのは、本当にお前だったのか
そもそも鉢屋三郎という人間は、
本当に、ほんとうに、実在したのか


「三郎、」


もう思い出せないのだ
あの日、蝉の鳴く茹るような蒸した空の下
まだ幼かった口から飛び出した
鉛のように重たくて、恐ろしくて、


「三郎、三郎、」



毎日毎日、喉から手がでるほど欲しかったそれをくれたのが、
本当にお前だったのか







『愛しています。××先輩』











それが例え嘘であろうと
はたまた、本当であったとしても、だ


「(…ああ、)」


やっぱり結果は
寸分だって、違わないわけで


「(まただ。あたしは、また、)」






















(お前が置いていった沢山の猛毒の中で)
(やっぱりあたしは、ひとり喘ぐんじゃないか)

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ