アレ神・短編2

□flower dream
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 下校のチャイムが鳴るのを聞きながら、足早に廊下を進んだ。
今日は早めに帰ってこいと言われたし、親父がいる時にその言いつけを聞かないと後が面倒だ。
所謂頑固オヤジとは全く違うのだけれど、あとで散々泣かれたり縋られたりするので精神的にすり減る。
面倒を避けるため、少々癪だけどさっさと帰る。もう引退したから部活も無い。

 そう思って、角を急いで曲がった時に視界が白で塞がれた。
いや、正確には白いシャツで視界が埋め尽くされるほどの距離で、角から出てきたその人とぶつかりそうになってしまったのだ。

「うわっ…!」
「わっ、危ないですよ?大丈夫?」

 頭の上の方から落ちてきた、聞き覚えのある柔らかい声。
向こうもぶつかりかけた生徒が誰だか気付いたらしく、あっ、と小さく声を上げる。
どうしよう、なんてらしくないことを思う。
だが、このままじゃ前に進めないし家に帰れない。

 仕方なくゆっくり顔を上げると、この学校で一番苦手な奴―――アレン・ウォーカーは小脇に教科書と出席簿を抱え、裾がチョークで汚れた白衣を着てにこっと笑っていた。
その白衣の本来の色やさっき俺の視界を塞いだ白いワイシャツに加えて、この教師の髪は脱色でもしたみたいに真っ白だ。
年度の初めに新入生が聞くので一番多いのは「先生、その髪校則違反じゃないの?」だって前に笑って言ってた。
脱色なら校則違反だけど実はこれ地毛なんですよ?って悪戯っぽく言っていたのも、忘れられない。
………あれは、「いつ」だったか。

「神田、廊下走ったら危ないですよ」
「……何で俺の名前そんな覚えてんだよ、一回もうちの学年持ってねえだろ」
「教師に対してその口のきき方は頂けませんよ?第一、入学式早々大遅刻かました生徒なんてなかなか忘れられませんし」
「それはもう言うな!」

 何度人の失敗をほじくり返せば気が済むんだ、そっちこそ教師としてどうなんだ。
もう2年も前の話になるのに、この男は人の顔を見る度にその話を繰り返す。
だけど、俺がこの男を苦手としている理由はそれが一番じゃない。

「じゃあ神田、気をつけて。走って帰っちゃ駄目ですよ」

 そう言って、にっこり手を振る。
けれどその目元はいつもほんの少しだけ寂しそうに、名残惜しいように俺を見ている。
それを見ると何故か、胸が痛む。
寂しそうな顔をしているからじゃない。初めて会った時からずっと、ぎゅうっと胸を糸で縛られたみたいに痛い。

 だけど俺には、その理由が分からない。
偶に廊下で会ったら声をかけられるだけの関係の教師相手に、何でそんな感情を持っているのか。
だから俺は、こいつが苦手だ。



 吃驚した、というのが本音だった。
学校の中で―――尤も、そこ以外で会うわけはない―――あの子、神田ユウの姿を見かけるのは久しぶりだったのだ。
この間の3月までは僕が授業をする教室のすぐ近くに彼の教室があったから、度々姿を目にした。
けれど年度が変わりあの子が3年生になってからは、めっきり姿を見る回数も減ってしまっている。

 どこの少女漫画かと突っ込みたくなるようなタイミングで廊下から飛び出してきた黒髪。
それがあの子だって分かった時、本当に吃驚した。
馬鹿みたいな言い方をするなら、世界の時が止まったような、そんな衝撃だった。

 彼だと、思った。

 とうにこの世界から消えた、そもそも出会った時からすでに違う存在だった彼が突如といて廊下の向こうから現れたのだと、本気で思った。
思わず声に出して驚いてしまったけれど、そこで我に返った。
違う。この子は彼じゃない。彼はもう、とっくにいない。この子は、彼とは違う人間だ。
分かっているのにそれでも見間違えたのは、あの子の背がまたすらりと伸びて、背中まである長い髪の長さまでそっくりになっていたから。

 入学式に大遅刻という失態を犯していた2年前も十分そっくりだったけれど、あの時あの子はまだ15歳で、今より背も低くて華奢だった。
それがどんどん背も伸びて、流石に僕を追い越しはしないけど、昔会った彼には追いついているかもしれない。
15歳の頃には肩を超す程度だった髪も、今は高く結いあげてなお肩甲骨の下に届く長さ。

 そっくり過ぎるんです、と、化学室の片付けを全部終えて、さらに残業する為に戻ってきた職員室で相手のいない溜息を洩らす。
あの子は彼じゃない。
あの子にはあの子の人生と言うものがあって、あの子の人生において僕は高校にいた教師の一人に過ぎないんだ。
そう、分かってはいるのに。

「……神田、」

 呻くように呟き、ポケットに入れたままの桜の花びらを指先でそっと探る。
もう誰も残っていない、明かりも半分消えた職員室でこんなこと、完全に馬鹿だ。そうじゃなければ変態か。
いい加減次の恋でもしたらどうかと思うし、現に高校の時の友達からはあれ以来彼女を作ろうともしないことを本気で心配されている。
でも、出来ないんだ。
最期に遺された言葉を思う度に、この花を見る度に、忘れられるわけがないという気持ちが募る。
そしてその気持ちを、あの子に押し付けてしまいそうな自分を抑えるので精一杯だった。

 初めて会った日、あの子は僕を知っているような事を呟いていた。
あの時は本当に胸が高鳴ったものだけれど、あれきりあの子が昔の事を覚えているような素振りは一度も見ない。
あの子が見覚えがあると言ったのも、他人の空似で僕に似た誰かをどこかで見ただけということだって大いにあり得る。
大体、あの子が生まれたのは、彼が死んですぐの頃の筈。
僕が彼と出会った頃には、あの子はもう10歳近かったのではないだろうか。

 仮にあの子が、本当に彼の―――胡散臭い言葉で言うなら、生まれ変わりだとでもしても。
今のあの子には昔の事も、まして僕と出会った時の事も、全く記憶に残っていないのだけは確かだった。
姿かたち、声、言葉遣い、それらがどんなに似ていても、あの子と彼は違う人。
そして僕のこの時空を超えて狂ったような恋心は彼へのもので、あの子に向けられたものじゃない。
だから、僕はこの一歩間違えたら何をするか分かったものじゃない思いを持ったまま、あの子に近付いてはいけないのだ。

「1年…あと、1年じゃないか」

 あと1年もすれば、あの子はここを卒業する。
どんな道を選ぶつもりか知らないけれど、僕とはもう会う事は無いだろう。
そうすればもう、僕はあの子と彼を混同してこんな思いに苛まれる事も無い。
だから、あと1年。短いようで長いその時間だけは、耐えなくてはいけないのだと僕は自分に必死で言い聞かせた。

 その時急に机の電話が鳴って、我に返る。
時刻はもう夜の8時近く。物思いのせいですっかり進んでいない仕事のせいで気付かなかった。
こんな時間に保護者からの急用だろうか、生徒に何かあったのかと焦りながら電話を取った。
落ち着いた口調を装って電話に出ると、かけてきたのはとある生徒の保護者だった。

「…はい、僕がウォーカーですが……え?」

まさかクレームでもつけられるのかと一瞬ひやりとしたが、電話の向こうの低く落ち着いた声はとても丁寧だった。
けれど、その声が告げた言葉を、僕はとても現実のものとして受け入れがたいと感じた。
そして何より、それに高鳴る自分の胸は、本当に馬鹿で不謹慎だと呆れざるを得なかった。


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