アレ神・短編2

□ビター
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 じとりと首筋に薄くかいた汗に、神田は顔を顰める。
本当ならば、寒さに少し身を竦めていたっていいくらいの季節。
だが今年は温暖化なのか偶然なのか、もう一年も残り二カ月になろうとしているのにちっとも寒くならない。
それどころかぬるぬるとまだ暑さが居残っていて、分厚い冬服は鬱陶しかった。
校則で決まっている更衣期間は、暑かろうと寒かろうと変わらない。
他の学校より少し早く衣替えをするこの学校では、十月も終わりに差し掛かるこの時期には完全に衣替えが終わっている。

 けれど、今年の秋はさっぱり涼しくない。
おかげでぴっちりと肌に触れている詰襟の固い生地がじとりと熱く湿って、どうしようもなく不愉快だ。
上着だけでも脱いでシャツ姿になれればいいのだが、神田が所属する剣道部の習慣で制服を着崩すのも好きではなかった。
そういうわけで神田は元々ぎっちり刻まれている眉間の皺をさらに濃くしながら、この暑さがさっさと去って過ごしやすい冬が来るのをじぃっと待ち侘びているのである。


 元々神田は真面目な性質だ。
制服を着崩さないのも、正直なところ部の習慣が無かったとしても自分の好みでそうしたことだろう。
乱れというものが嫌いだった。特別見た目を良くしようとかそういう考えは一切ないのだが、乱れているものが好きになれない。
そういうわけで、どんなに暑くて不愉快でも、それを顔面に丸出しにしていても神田はきちんと制服を着込んでいる。

 そんな性格の神田にとって、今日という日がこの上なく不愉快なのは道理と言って良いだろう。
下駄箱で靴を履き替え、廊下に一歩足を踏み入れた瞬間から目眩がした。

「……な……」
「あっ、神田おはよう!」
「…………何だよこれは…」

 顔面蒼白になった神田は廊下に広がる見慣れぬ光景を凝視して硬直し、その視線を遮るように立っているリナリーは何が?と目を丸くする。
そして背後を振り返ってから自分の袖口に目をやり、ああ、と何でもないように呟く。

「可愛いでしょこれ?自分で縫ってみたのよ」

 そう言いながらリナリーはいつもの制服のブラウス―――の袖に綺麗に縫いつけられた黒いレースをひらひらさせて笑う。
いや、よくよく見れば、彼女が着ているのは学校の指定のブラウスではなく、もう少しカジュアルな布地の白ブラウスだ。
そして彼女が羽織っているのはいつものカーディガンではなく、ひらひらしたデザインの黒いマント。
制服のスカートは流石にそのままだが、元々紺の地味なスカートの上に黒のマントで、さらに頭には小さな黒の山高帽をピンで留めている。
まるで、魔女。

 神田が唖然として見ていると、リナリーは機嫌を損ねたように口を尖らせる。

「ちょっと神田?何か言ってよ」
「…………お前、どうしたんだ」
「どうしたって、これ?仮装よ仮装」
「かそ…?」
「そうよ神田。だってほら、今日はハロウィンじゃない?」

 にこお、と笑うリナリーの顔を見て、今度こそ神田の顔からは血の気が引いた。
そうだ、そんな日があった。
神田は学校にいて、特別気が重い不愉快な日が2回ある。
一つ目はバレンタインデー。
女子生徒が持ってくる大量のお菓子の甘い匂いで気分が悪くなるし、どういう了見だか知らないがそれを自分に渡そうとする女生徒達にうんざりさせられる。
そして二つ目が今日、10月31日。
本来日本では何の関係も無い筈のこの日が、神田はとにかく大嫌いだったのだ。


 リナリーの後ろの廊下にうじゃうじゃといる浮かれた仮装の生徒を見て、神田は本気で全員吹き飛ばしてやろうかと思った。
別に、風紀委員でもないのだから他人の服装なんてどうだって良い。
男子生徒がズボンを腰で履いていようが、女子生徒のスカートが短かろうが、神田には関係のない話である。
けれどこうも、色が沢山あってふわふわとした髪だの服だの小物だのが目の前をうろうろし続ける環境というのが、神田には苦痛で仕方ないのだ。
文化祭みたいに、そもそもの空気がいつもと違う色に染まっていればまだ良い。
けれど今日は文化祭でも何でもない、普通の授業しかないごくごくつまらない普通の高校生活の一日なのだ。
ただ、10月31日であるということを除いては。

 耐えがたい、と神田は少々よろけながら廊下を進む。
お祭り気分で浮かれる生徒達が群がっていて、ついでに仮装のおかげで皆身体のかさも増していて邪魔なことこの上ない。
思わずチッと舌打ちが洩れるが、今日に限っては誰も気付かない。

 ひどく目立つ美しい容姿を持って生まれた神田は、望んだわけでもないのにどこに行っても人目に晒された。
それはこのひどく地味な高校でも変わらず、というより街なかにいるより余程注目を浴びる。
紺の詰襟という地味で冴えない制服は、それを着る人間の美醜を否が応にもくっきりと表わしてしまう。
人並み外れた神田の美しさは、地味で冴えない紺の制服の群れに紛れてこそ、余計に際立つのだ。
そういうわけでこの学校に入って以来神田はただ廊下を歩くのでさえ周りの熱い視線やらざわめきやらに晒されなくてはならなかった。
人目を引いていたのは中学までも同じだったのだが、元々顔見知りが多かったせいかそこまで物珍しさというのが周りにとっては感じられなかったのだろう。

 だが、その神田が今日に限っては眩し過ぎる色の渦に沈んで誰にも見つからない。
見つからないこと自体は歓迎したいが、せめて身を隠すものがこんな五月蠅い色でなければ良かった。
神田がもう一度舌打ちを漏らしそうになった時、目に痛いほどの原色の中に真っ白な髪が見える。
くそ、いよいよついていない。

 白い髪の主は、きゃっきゃと笑う数人の女子生徒に囲まれて談笑していた。
女子生徒は皆さっきのリナリーみたいな魔女の仮装だの、お化けの形の帽子だのを被っているが、その奥にいる白い髪の彼の服装は見えない。
似合う似合わないなら、彼はこういう仮装の類はとても似合いだと思う。
それが好ましいかどうかは全くの別問題だが。
とにかく、女子生徒達と楽しげに話す彼は、他の生徒同様神田には気付かないだろう。
そう決め込んで足早に前を通り過ぎようとした。

 けれど、鋭い声が笑いながら切りこんできて神田の足を紐で引っ掛けたみたいに止めてしまう。

「あれ、神田?おはようございます」

 えっ、神田くん?と女生徒達も笑うのをやめて振り返る。
それが合図だったみたいに一瞬廊下が静まって神田に視線が集まるが、それもほんのわずかな時間のことで、すぐに皆それぞれ馬鹿騒ぎの中に帰った。
けれど、鋭い挨拶を差し伸べてきた彼―――白い髪の少年は、にこりと薄い笑みを浮かべたまま神田を見つめ続ける。

「聞こえません?おはようございます、神田」
「…っせーな、聞こえてんだよ」
「じゃあ返事くらいして下さいよ」

 神田は顔を意地でもそちらに向けるものかとがっちり前を向いていた。
こいつとだけは目を合わせるもんか、と。
けれどそれでも視界の端には白い髪が映り、本当にちらりとだが、その服装も目に入る。
そしてそれに驚いて、神田はさっきの決意を一瞬忘れて思わず目を見張ってしまった。

 白い髪の少年もとい、神田の天敵と言える同級生のアレン・ウォーカーは、神田と同じ地味な制服をぴしりと着込んでいて、仮装のかの字も見当たらない姿だった。
それが意外で、神田は一瞬言葉を失う。
神田とは正反対の、人好きがする性格で人気者のアレンのこと。
生まれが海外であることもあり、率先して仮装でもするのかと思っていたのに。

「……てめぇは浮かれた仮装しねぇのか」
「浮かれたって失礼ですね。女の子が可愛い格好していて華やかじゃないですか」
「は、ここは学校だ。祭りでもねぇのに何が華やかだよ」
「うわ、女の子前にしてよく言えますねそんなこと」
「ああてめぇはあれか、万年仮装してるようなもんだもんな、モヤシ」

 わざと彼が嫌う呼び名を口にすると、穏やかだったアレンの表情にびしりと罅が入る。
けれど女子生徒の手前、口調は荒げずにアレンは反論してくる。ただし、声音は明らかに熱がこもっていた。

「一応僕、この髪気にしてるんですよね。そういうの言うのってどうかと思いますけど」
「てめぇの事情なんか知るかよモヤシ」
「人のことモヤシモヤシって失礼なんですよ君って人は。…もういいです、じゃ」

 何がもういいです、だ、突っかかってきたのはそっちじゃねぇか。
神田がそう言う前にアレンはさっと神田とは反対方向に歩きだしていた。
二人の静かな言い合いに気圧されていた女子生徒達も慌ててアレンの後を追う。
どうせそのうち授業が始まるのだから、追う必要なんて無いのに。
そう思いながらも、神田はほんの一瞬だけその背中を目で追ってしまった。

 気持ちが悪くなるような赤、オレンジ、黄色、青、緑、ぎらつく金や銀。
アレンの白い髪は、夥しい色の渦の中で沈むことなくはっきり神田の目に届いた。
仮装した生徒が溢れる廊下の中で、白い髪と無地の地味な制服はまるで浮き上がるように、神田の目には映った。
さっきの自分もあんな風に見えたのだろうか。
黒い髪、無地の地味な制服。
浮かれた空気にまるで馴染まず、馴染む気もなく、馴染めはしないこの自分も、あんな風なのか。
だからアレンは、自分を見つけて、声をかけたんだろうか。

 それとも、あいつもああだから?
そこまで考えた時、予鈴が鳴る。
我に返った神田は慌てて教室に向かい、仮装した生徒達もわらわらと教室に吸い込まれていく。

 あいつも同じだから俺に気付いた?
何考えてんだ、馬鹿か。気色悪い。
一瞬浮かんだ言葉は、教室でも広がる浮かれた鮮やかな色の海を見たら一瞬で波にさらわれて消えてしまった。

「ちょっと神田、早く入って下さいよっ」

 背後からするアレンの声。
あっという間に戻ってきたな、と思いながらわざと神田はそこで立ち止まる。
単なる嫌がらせである。

「神田!」
「うるせぇな。嫌がらせなんだからそこに立ってろよ」
「はぁ!?」

 何だよそれ、と珍しく口調を荒げたアレンを振り返り、神田は妙に愉快になってにやりと笑う。
ああ、そうか。
原色の渦も浮かれた空気も嫌いだけれど、この言葉は使い勝手がなかなか良い。

「俺は甘い菓子なんて持ってねぇからな」
「は?」

 わけ分かんない、と顔を歪めて怒るアレンが、妙に可笑しくて仕方がない。
それを見下ろして、神田は聞こえないほどの声で呟いた。

トリック・オア・トリート。

 甘い菓子の代わりに、鬱陶しいその面構えにはとびきり小さな悪戯を。
そんな気持ちにさせた理由は、まだ知らない。


Fin.
 

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