アレ神・短編2

□嘘つきサンタのメリークリスマス
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 ポケットの中の薄いそれがブルル、と震えるのを感じて、僕は右手を突っ込んでちょっと雑にそれを引っ張り上げる。
ピーコートの少し深めのポケットだが、着慣れたものだからちょっと奥の方に手を入れて、顔はそちらに向けなくてもきちんと取り出せる。
取り出したそれの脇のボタンを軽く押して四角い電子画面を表示させてから、親指を素早くスライドさせてさっきの振動の理由―――メールを確認する。
ほんの僅かな期待に胸を膨らませながら。そんなわけないって、頭のどこかなんて曖昧なところじゃなく、ど真ん中で理解はしているのだけれど、それでももしかしたらちょっとくらい、と期待する僕は相変わらず往生際の悪い男なんだろう。
尤もいくら往生際が悪くても、四角い画面が知らせる事実の前には期待なんてものはあっさり崩れ去る。

『ちょっと遅くなっちゃったけど、誕生日おめでとう、アレンくん。これから1年がアレンくんにとって素敵な年になりますように。メリークリスマス!』

 今時の女の子らしくないと言えばない、絵文字も顔文字もないさっぱりとした言葉で綴られたメール。
けれどそれはとてもその送り主であるリナリーらしい。
別に飾りなど無くたって、真っ直ぐに相手を思う心を伝えられるのが彼女らしいと思って、僕は素直に嬉しかった。
でもその陰で少し、いやかなりがっかりもした。
期待するだけ馬鹿だって分かってはいるのだけれど、ああ、リナリーか、って思ってしまったのだ。失礼過ぎる、ってすぐ我に返ったけれど。
ああ、でも、それでも。
ほとんど日が暮れた夕方の電車の窓ガラスに映る僕の表情は分かりやすくしょげていて、まるで告白に失敗して帰ってきた男みたいだ。
失敗したみたい、と言うより失敗しているのだろうけれど。
はぁ、と溜息をついて僕は携帯電話をポケットにしまい込み、これ以上自分の情けない顔も見たくないから目を瞑る。僕が降りる駅まではあと5つあるからちょっと眠るくらいでいいのかもしれない。
けれど眠りはさっぱり訪れなくて、代わりに瞼の裏にはメールも電話もよこしてくれない彼のことが浮かんでは消え続ける。

 眠るのは無理だと早々に諦めて僕は目を開け、一度も振動していないと分かっていながら携帯電話を引っ張りだした。
メールもなし、電話もなし。やめておけば良いのにメールセンターに問い合わせもしてみたが、新着はゼロ。
ずしん、とまた胸が重くなる。
たくさんの路線が乗り入れる大きな駅とは反対側に進む電車の中は夕方にしては吃驚するくらい空いていて、時折すれ違う反対側の電車は混み合っている。
その度に僕はぎゅうぎゅう詰めの列車が幸せな空気を振りまいているような妄想に襲われて、そのまま不貞寝したいような気分になった。
人もまばらな電車の中に独り座り、我慢できなくなってつい、名前を呼んだ。

「………神田」

 答えなど、あるわけもないのに。
無情なくらいに黙りこくる携帯電話を握り締めた時電車は僕が降りる駅に着き、僕は重たい足で電車を降りた。

*****

 僕が神田を好きになった理由はとても簡単で、ただの一目惚れだった。
複雑な家庭事情のせいで高校生から一人暮らし且つバイト三昧の生活を送っていた僕は、気が付けば友達というものがまるでいなかった。
特にクラスで孤立していたわけじゃないし、むしろ皆と上手くやってそこそこ人気もあったような気さえする。
けれどだからと言って誰か特別親しい友達もいないし、好きになれる女の子もいなかった。
そのことに気が付いたのは大学に入って今のアパートに引っ越してきてまもなくだ。
高校まではどこに行くにもクラスという枠があって、その中にいれば何となく誰かといることが出来た。
でも大学生になったら当然そんなものは無くて、皆親しい友達で固まって行動してしまう。
勿論大学に入ってそこで新たな友達でも作ればよかったのだが、そもそも僕にはそういう発想さえ無かった。
そして授業と相変わらずの大量のバイトをこなすうちに、気が付いたら自分は所謂友達のいない人間だと気付かされた。

 特にそれが嫌なわけじゃない。ただ少し、それまで気付かなかった寂しさみたいなものを見つけてしまって嫌だった。
神田に出会ったのはそんな時だ。
今でも忘れない。色んな学部の学生が入り混じる大きな教室で偶然彼が隣に座って、いつもなら真っ直ぐ前を見て授業を聞く僕がどうしてだか黒板から視線を外したくなったあの時、僕の目に映った彼の横顔を。
一瞬、女の子かと思った。あんなに線の整った顔の、しかも髪を美しく伸ばした男がいるとは思えなかったのだ。
美しい人を美しく描くポートレイトでも見ているみたいだと思った時、真っ直ぐ黒板を見ていた筈のその人がこちらを向いたのだから僕はうろたえた。
絵の中の人間が動き、こちらを向いて口を開けたみたいなそういう衝撃だったのだ。
そしてどうしてだか、僕は急に顔が熱くなった。

「プリントって何のことだ?」

 突如顔に集まった熱に狼狽して、僕は神田のその簡単な質問に答えるのに随分手間取った。
プリントは年間通してのその授業で、夏休み前最後の時に配られたのだが、神田はその日都合が悪く来ていなかったらしい。
休み明けだったこともあって教授が言及したプリントの内容にぴんと来なくて、隣にいた僕に声をかけたのだ。
普通ならそこで僕が説明して、ついでにプリントを授業中に見せてあげて終わる関係だったかもしれない。
だがそのプリントは案外重要で、その次の授業でも使うから無くさないようにとの指示で授業が終わった。
周りの学生が一斉に席を立って教室を出ようとする中、神田は少し面倒くさそうに舌打ちをした。

「……この授業、友達いないんですか?」
「いねぇ」
「じゃあ、えっと、僕のこれコピーします?」

 何でどもったのか、その時は分からなかった。
神田はちょっと驚いたように目をぱちぱちさせたが、一言、頼む、とだけ短く言った。
二人ともその日の授業はそこで終わりだったから、一緒にコピー機がある場所まで向かうことになった。
そろそろ夏も終わる筈の日の夕方なのに随分暑くて、蝉の声がしていた。

「暑いですね」
「? なら長袖着るなよ」
「…あ」

 変にどきどきするのを抑えるみたいに僕が呟いた言葉に、神田は怪訝そうに首を傾げた。
当然の問いを引きだしてしまって、僕は内心しまったと頭を抱える。
初対面の人相手に、夏場でも長袖を着ている理由に触れるような話題は決して自分では振らないようにしていたのに、どういうわけだか神田相手にはその思慮をすっかり忘れていた。
けれど不思議そうな顔をする神田を見て―――尤も僕はその時、まだ彼の名前も知らなかった―――、お茶を濁すのもどうかと思わされる。

「……昔、事故に遭っちゃって傷跡が残ってるんですよ。顔のこれもですけど。あんまり他の人に見せられるような腕じゃ、ないので」
「―――そうか」

 神田は、すまない、とは言わなかった。
今まで不用意に僕の長袖や顔の傷の理由を訊いた人は皆ひどく気まずそうに声を潜めたのに、神田はただ一言、そうか、だけだった。
そして僕にはそれが妙に心地好かった。

「って言うか、隣にいたとは言え、よく僕にすんなり声かけましたね。髪とかこの顔の傷で怖がられちゃうんで、初対面だと結構引かれるんですけど」
「別に。顔に傷があるからって何だよ」
「いや…何でもない、ですけど」

 神田の口調はひどく無愛想で、冷たいとさえ見えるようなものだったと思う。
けれどそれまで生きてきた中で僕は、こんな朴訥と触れるような言葉に出会ったことがなかった。
だから僕はその言葉に、思わず微笑んでしまったのだ。神田はそれを見て、何だお前、気味悪ぃ、って引いたけれど。

 コピーが終わり、一言礼を言って帰ろうとした神田を僕は引き留めた。
一体なんだとちょっと機嫌を損ねた神田に焦りながら、僕は必死に取り繕う。

「これも何かの縁ですし、その、連絡先教えてくれませんか?!」
「は?」
「いや、えっと…ほら君、あの授業知り合いいないんでしょう?まだ半年あるし、これから休まなきゃいけない時とか、何やったか伝えられるように」

 ちょっと口から出まかせ過ぎるかと思ったが、神田はすんなり納得していた。
後で知ったことだが、あの授業は神田の専攻では必要な単位に組み込まれているためついていけなくなるのは困るのだった。
ならどうして知り合いがいないのかと不思議だったが、答えは簡単だ。神田も僕と同じように、ろくに大学で人と関わらないタイプだっただけの事。

「じゃあお前が入力しろ」

 そう言いながら神田が差し出してきたのは、最新式のスマートフォン。
いかにも機械慣れした人が使いそうな機種なのに、入力さえ面倒くさがる神田がそれを持っているのは不思議だった。
それが顔に出たらしく、神田は舌打ちを返す。癖なのだとその時気付いた。

「親父に無理やり持たされただけだからよく分かんねぇんだよ」
「えっ!?最近まで携帯持ってなかったんですか?」
「必要無かっただけだ」

 神田の様子からして今でも本人は要らないと思っているのだろう。
メールしてもちゃんと見てくれるのかなあ、なんてちょっと不安に思いながらも僕の連絡先を神田の携帯に登録し、ついでに神田のアドレスも探し出して僕の携帯に入力した。

「はい、出来ました」
「ああ」
「じゃ、また来週」
「休むんじゃねーぞ、モヤシ」
「…………えっ?」

 今なんて言いました?と訊き返す前に神田はさっさといなくなっていた。
今、何か、モヤシとか呼ばれたような。
そう言えば僕はちゃんと名乗りもしなかったし彼の名前さえ訊かなかったが、だったら普通名前を訊くだろう。モヤシって何だ。
唖然としたが、不思議と嫌な気がしないのが妙だった。


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