アレ神・長編

□白狐
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―Prologue―

 そこは、山と川に囲まれた小さな村。
市街から遠く離れたそこは、文明を謳歌しようともせずただひっそりと息を潜めていた。誰にも見つけられまいとするように。

 閉じられた世界の村を出入りするには、細い細い一本道をひたすらに歩いていかなくてはならない。
尤も、そこに人影を認めることは稀である。
半ば村は外から忘れ去られたような存在であり、村の住人達もまた必要以上に外へ出ていく者はない。
大抵のものは村の中で賄っているせいもあり、外へ出る必要があるのは、役場に用事が出来た時、村の医者では対処できない病人が出た時、そして、この村にはいられない何らかの事情が出来た時だけ。

 だからこそ、少女はその道をゆったり歩いてくる人影を、家の前の掃除の手を休めずともすぐに認めることが出来たのだ。

「………どちら様?」

見たところ少女とそう歳は変わらない若い男である。
今まで村に来たところを見たことはない。
外套のように黒い布を纏っている上に片目を眼帯で覆った奇妙な身なりは役場の新入りには到底見えず、少女でなくとも不審を抱かざるを得なかった。

警戒で身を強張らせる少女に、男はへらへら笑って両手を上げてみせた。

「あ、そんな怪しい者じゃなくて。えーっと、ここどこ?」
「…もしかして、旅人さんとか?」

男の問いを無視して少女が訊くと、男はそうそう、と大げさに頷いた。
少女はほっとして肩を落ろし、箒の柄を握りしめていた手から力が抜ける。

「随分変わった人ね。こんな辺鄙な村に旅の人なんてまず来ないのに」
「あー、旅人と言えばそうなんだけど、本業はちょっと変わってるんさ」
「本業?」
「そ。物書きっつえばいいんかな。色んなとこ回って話のタネ集めてるんさー」

呑気な口調だった筈である。
けれど少女はその言葉を聞くなり、さっと顔色を変えて再び柄を強く握った。
力を込められた薄桃色の指先が白くなり、不自然にならないように箒を動かしながら、少女は男に背を向けた。

「…話?」
「そう。面白い、変わった話。そういうの探してるんだけど、この村で最近変わったこととかおかしなこととか………何かない?」

男は笑った。
けれどその笑みは単なる問いではない、と少女は直感で悟った。


―――この人、まさか、「知ってる」?


「…無いわよ」
「ほんとにー?」
「…っ、無いったら、無い!!」

少女は我慢しきれずに声を荒げ振り返った。
だがその先の男は怯みもせずに笑ったままで首を傾げている。

「そんなに怒らなくてもいいのに」
「怒ってなんて」
「それじゃまるで、本当は何かあったみたいなんだけど?」

問いかけるような口調だが、本当に問いかけるだけならばこんな言葉は出てこない筈だ。
間違いない。
この男は、「知っている」。

「…あなた、何を、どこで聞いてきたの」

世界から忘れられ去られた村。
人の出入りなどまず無いこの場所には外の出来事は伝わって来ないし、ここで何が起きたところでそんなものは一番近くの町さえもろくに伝わらない筈である。
何よりあの忌まわしい出来事を好き好んで口にしたがる村人などいる筈がないのに、どうして流れ者のようなこの男が知っているのだ。

 少女の心には疑問がぐるぐると渦巻いていたが、男は相変わらず呑気に笑ったままで降参するように両手を上げて見せている。

「さぁて?俺はこういう場所の村には大概変わった話がつきものだって今までの経験であたりをつけただけなんだけど。そんな言い方するってことは、やっぱり何かあるんさね」
「!」

少女はぎっと歯を食いしばり、男を睨んだ。
尤もそれには何の効力も無く、男は怯むどころかさらにへらへらと笑うだけだ。

はめられたのか、と今さら気付いてももう遅い。
きっとこの男は納得するものをほじくり出せるまで絶対に諦めないだろうし、ここで少女が拒絶すれば他の村人に同じ問いを投げかけるに違いない。
それならばまだ、自分で話し、この男を納得させて追い返す方が余程ましだ。

 少女は深く息を吸った。
思えば、あの出来事をはっきり口にするのは、これが初めてだった。

「話す前に、条件があるわ」
「何?」
「あなた物書きだって言ったわよね。まず、もしこの話を元にして何かを書くなら、ここで起きたことだとは分からないようにして欲しいの」
「そのくらいは礼儀として弁えてるさ。条件はそんだけ?お嬢さん」
「リナリー」

硬い口調で少女がぽつりと呟くと、男の細い目が少し見開かれる。

「お嬢さん、じゃないわ」
「こりゃ失礼したさ」
「あなたも、ちゃんと名乗って」

どこの誰だか分からぬ輩に易々と話せるほど、あの出来事は簡単ではないし、少女にしてみれば思い出したくないことで満ち満ちている。

 少女の射るような視線からそれを察したのか、男はすぐに頷いた。

「それも道理さね。俺はラビっつーんさ」
「…そう。じゃあラビ、最後にもう一つ分かっていてもらいたいのだけど」

少女は微かに俯き、苦虫を噛み潰すように眉根を寄せた。

「私はそのことの全部を知っているわけじゃないの。きっと、ほとんど分かっていないんだと思う」
「…うん」
「私は知っていることを話すけど、それはきっと真実じゃないわ。だから、それだけは間違えないでね」

 そこまで言うと、少女はすぐ真後ろに建っている家に向かってすたすたと歩き出した。
ラビと名乗った男は慌てて後を追う。

「リナリー、どこ行くんさ」
「どこって、私の家よ。短い話じゃないから、外にいたら寒いし、それに…」

他の人に聞かれたくないの、と少女は消え入るような声で呟いた。

 火の焚かれた家の中は温かく、物音に気付いたらしい男が現れ、少女が見知らぬ男を連れて戻ってきたことに驚愕して目を見開いた。
男が何か叫ぼうとするのをさっと阻止するように少女は事情を説明した。
訳を聞いた彼は途端に大人しくなり、心配するような顔で少女と男を交互に見比べた。

「…なら、僕も一緒に話そう」
「兄さん」
「リナリーが知らないことも僕は知っているかもしれないし、同じことでも人が違えば見方も変わる。あの事は、今でも僕は整理がつけられないから」

そう言って、少女の兄である男は悲しそうに微笑んだ。

「はじめまして、ラビ、だったよね。僕はリナリーの兄のコムイ。僕も真実を知っているわけではないけれど、僕ら以外の村人から聞き出すよりはきっと君の仕事の役に立てるだろうし、それに…」

そこまで言って少女の兄は口を噤み、いや、何でもない、と呟いて二人を中へと招き入れた。

「…随分、難しい話みたいさね?」

男の言葉に、兄妹は無言のまま頷いた。


 居間に腰を落ち着けると、三人を沈黙が包む。
少女の兄は何から話していいのかとしばらく視線を宙に泳がせていたが、やはり最初からだね、と呟いた。

「この村には、狐がいたんだ」
「狐?」
「そう。少年の姿をした、狐がね」

狐がいたんだよ、と少女の兄は繰り返した。
少女は膝に置いた手をぎゅっと握り、床に視線を落とす。
男は、それらの仕草が人間が心の奥に沈めてしまいたいような苦痛を無理やり表層に引きずり出す時に見せるものであることを経験で知っていた。


―――こりゃ、ただ事じゃなさそうさね。




それは、閉ざされた村でひっそり隠される筈だった、狐の話。



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