アレ神・長編
□リトル・リリーズ
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満員電車が好きな人間なんているわけがない、とずっと思っていた。
暑苦しくて、見ず知らずの人間と密着しなくてはならないなんて、ある意味で拷問だ。本当に不愉快だ。
ずっと、そう思っていた。
この空間を密かに愛する「奴」に気付くまでは。
まただ。
元々吊り上っている目尻がさらにぎりっと上がったせいで、スーツ姿の男たちの肩の隙間で目が合ってしまった気弱そうな中学生が目をそらした。
お前を睨んでるわけじゃない、と教えてやりたいが、声は届かない。
睨みたいのは「こいつ」だ。
でも、顔が分からない。
神田ユウが通学途中の痴漢に遭うのはこれで13回目だった。
相手の顔など分からない。
何度もとっ捕まえてやろうと試みたけれど、ろくに身動きすら取れない満員電車の中では、犯人の手をつかむことなどできなかった。
声をあげてやろうかとも思ったが、誰が犯人だか分からないんでは名指しもできないし、無駄な注目を浴びるだけだという気がしていた。
それでも、毎回同じ手なのだということだけは分かっていた。
撫で回してくる感じがいつも同じなのだ。
そして、少しの隙があれば捕まえてやろうとずっと心に決めていた。
待ち望んだ「その時」が今日、ようやく訪れた。
駅に到着し、停車のアナウンスが入る。
停車する瞬間、ガタン、と電車が大きく揺れた。一瞬神田の周りに空間が空いたけれど、犯人の手はまだ神田の身体に張り付いていた。
今だ。
「てめぇ、ふざけんじゃねーぞ!」
大声を張り上げ、神田は真後ろにあった腕を捻り上げた。
突然の事態に驚いた周りの乗客が一斉に振り返ったが、ドアが開くと流れるようにホームに出ていく。
「い、痛い!何ですか!?」
腕の主は何とも気の弱そうな30歳過ぎくらいのサラリーマン風の男だった。
犯罪者には見えない。
だが、卑劣な事件の犯人が好人物に見える奴だった、なんてことはよくある話だ。
「何じゃねーよ、これで13回目だ、貴様が痴漢してくるのは!」
13回、という言葉に周りの乗客たちが息を飲んだのが分かった。
捻り上げられた男は愕然として目を見開いている。
「違う、僕じゃないです!」
「言い逃れしてんじゃねぇよ」
「その人は犯人じゃない」
「あ?」
2人の間に割り込むように伸びてきた腕の主を、神田は思いきり睨みつけた。
同じくらいの勢いで神田を睨みつけていたのは、白髪のショートカットの高校生だった。
「僕、見えたんです。あなたに痴漢してた犯人が、ぎりぎりであなたの手から逃れたところ。犯人、あなたがその人を捕まえて叫んだ隙に、出て行きましたよ」
言いながら目線でホームを指す高校生の言葉は、苛立たしいほど確信に満ちていた。
傍観者であったら、神田も思わず納得させられてしまいそうなほど。
だが今は神田は当事者かつ被害者である。
「お前が見たのが正しいなんて保証、どこにあるんだよ」
「本当に僕はやってないです…本当に…」
捻り上げられた男はやってない、やってないと呟く。
高校生は男をつかむ神田の手を無理やり引き離した。
軟弱そうに見えるのに、意外と力が強い。
「無実の人を捕まえておく権利、ないですよ」
高校生の断固たる声は、神田にしてみれば嫌味ですらあった。
男は文字通り逃げるようにして電車から降り、すぐにドアが閉まった。
車内の騒ぎなどまったく気付かないような、呑気な車内アナウンスが響く。
神田と高校生は、思いきり睨みあった。
「…ちっ」
少し混雑が和らいだ車内で、神田はできるだけ高校生と距離を置いた。
今度からこの奇妙な頭を見たら絶対に同じ電車には乗らない、と心に誓いながら。
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「まったくもう!鍵はちゃんとかけなさいっていつも言ってるでしょ!?」
いつもなら聞き流せる幼馴染の怒鳴り声だが、今日は耳を塞ぎたくなった。
朝の電車での一件からとにかく不愉快で仕方ないのに、何で自宅でまで説教を食らわなくてはいけないのだろう。
「うっせーな。つーか鍵空いてたからお前が入れたんだろ」
「そういう話じゃないの。いい?女の子なのよ?女の子の1人暮らしで、鍵かけないってどういう神経?」
信じられない、とぶつぶつ言いながら、リナリーは気持ちを鎮めようと広いリビングをぐるぐる歩き回っている。
広いけれども、簡素なソファとテレビが置いてあるだけのシンプルなリビングだ。
神田が1人で暮らすようになってからはもっぱら家の中は簡素である。
「強盗の一人や二人、退治できる」
「痴漢も逃しちゃうのによく言うわよ」
神田は虚をつかれたように幼馴染の方を見た。
「は?何でお前が…」
朝の電車にはリナリーは乗っていなかったはずだ。
今朝リナリーは朝練のために早く家を出ていたのだから。
「神田と同じ車両にいた友達に聞いたんだもん。電車の中で大騒ぎしたんでしょ?」
「騒いでねーよ」
この話題を打ち切りたい一心で、神田はばっさりと言い捨てた。
無実の人間を捕まえてしまったらしいのも居心地が悪いし、本当の犯人は取り逃したし、よく分からない高校生には嫌味を言われるしで、神田にとっては苛立つ要素以外何もない。
それを察したのか、リナリーも小声で「もう」と呟いて、話題を変えた。
「さて、じゃあご飯作ろうかなー」
「何でお前がうちで飯食うんだよ。コムイはどうすんだ」
「今日は兄さん、仕事で泊まりだから。1人より2人の方が経済的じゃない」
ちゃんと材料も持ってきたわよ、と笑顔でリナリーは布袋を玄関から引っ張ってきた。
どう見ても2人には多い量だろう、という言葉の代わりに、神田はソファに無造作に腰かけた。
「勝手にしろ」
「何その言い方!」
信じらんない、とぶつぶつ呟きながら、リナリーは手際よく野菜の袋を開けた。