アレ神・長編

□白狐
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一.

 日が暮れて、ねぐらにしている山の中腹の窪みの中で丸くなって目を閉じる時、決まって心に浮かぶものがある。

何か、温かくて優しいものに身体がふわりと包まれるような感覚が蘇ってきて、僕はまどろみながら温もりに沈んでいく。


僕には父も母も無い。

ある時気付くと僕はこの山で一人きりだった。

父の顔も母の顔も、何故こんな場所で一人生きているのかも、自分の名前さえ、何一つ知らない。
最初からそんなものは無かったのか、忘れてしまったのか、それさえも分からない。

だからたった一つ身に刻まれている温もりが何なのかなんて、僕には知る由も無いのだ。



 気付いた時には僕はこの山で一人きりで、飢えを凌ぎ生き延びるため、麓の村で盗みを働くことを覚えた。

親の無い孤独な僕のことを「哀れな子」と呼ぶ人はいない。

その理由を僕は、水に映る己の姿で知った。
老人のように真っ白な髪。
左の額から頬にかけて走る、抉られたような傷跡。
左肩に残る獣の歯型のような痕。

そう、人間離れしたこの姿は、この場所で忌み嫌われているのだ。

村人たちは、盗みを働き続ける忌まわしい姿のこの僕に、いつしか一つの名を与えた。
彼らは僕をこう呼ぶ。

「白妖狐」―――村人を化かす悪しき狐の化身、と。




「待ちやがれ、今日こそとっ捕まえてやらぁ!」
「観念しろ、この化け物!!」


耳慣れた罵声。
農具を振りかざしながら声を上げて襲ってくる追手から必死で逃げ、山の中に転がり込む。
盗んだものを手に握っていれば上出来だが、盗る前に見つかってしまえば何も得られなくともただひたすら逃げることだけに全力を払わなくてはならない。
僕は、ただ呼吸を繋ぐだけで、精一杯だった。



 しかしその日、ついに僕は、山へ逃げ込む前に地面へと崩れ落ちた。
その日は夏の最中のひどく暑い日で、乾いた空気で舞い上がる土埃が地面にはりつく鼻腔に侵入してくるが、僕は顔を逸らすことさえ儘ならなかった。
じりじりと太陽が身体を焼き、熱された地面に身体の水分を丸ごと奪われるような気がしたが、指一本動かない。

身体が大きくなるにつれ、僕の盗みは随分と見つかりやすくなった。
成長に伴って身体はさらなる滋養を欲しているのに、盗めるものは減っていく。
さらに村人が山に分け入るようになったおかげで、山で採れる食糧も減ってしまった。

身体を動かすのに必要な食糧が得られなくなり、その日ついに僕は、何とか追手を撒いたところで力尽きたのだ。

倒れたのは村の外れ、僕でさえ足を踏み入れたことの無かった獣道。
こんな場所で干からびて死んだら、一体いつ誰が気付くのだろう。
もし気付かれたらその時は、「バケモノが死んだ」という吉報が村を巡るのか。

獣道で野垂れ死ぬ。
いかにも狐らしいかな、なんて思ったところで、僕はついに意識を手放した。



「…ん…」

何だろう。
いつの間にか身体が仰向けになっていて、背中が硬くて冷たいものに当たっている。
額に載せられた濡れた何かが、ひんやりして、気持ちいい。

「………えっ?」

ひんやりする?
僕は確か、夏の暑さで焼けそうな地面の上で干からびる筈では?

怪訝に思って瞼を上げると、木の板を敷き詰めたもの―――人間の家の天井が目に入り、僕の背に当たるのは板張りの床だと気付く。
まだ言うことを聞かない腕をそろそろ動かして額に乗るものを掴むと、それは水を含んだ布だった。

どういうこと?

村人はこぞって僕を憎み、忌み嫌っている。
獣道で倒れた僕を彼らが見つけたとして、嘲笑いながら蹴飛ばしこそすれ、家に連れて行って介抱などするものか。

 状況が飲み込めず、僕はただただ茫然として掴んだ布を凝視していた。
その時不意に何かが近づく気配がし、僕は反射的にそちらを見やる。

「おい、目が覚めたか」

凛とした美しい声。
からり、と戸が開いた向こうに現れたその姿に、僕は今度こそ呼吸を奪われた。

 敷居を跨いで僕に近づき、床に伏す僕の顔をじっと覗きこんだのは、その声と同じくらい、僕とは異なる意味で人間離れした、ひどく美しい人だった。
僕を覗き込む黒い瞳は吸い込まれそうなくらいに綺麗で、怖いくらいだった。

声からして男であることは分かったが、こんなに美しい人間がいるものなのか。
少なくとも僕を追いかけまわす村の若い衆にこの顔を認めた覚えはない。

「お前、すぐそこの道でぶっ倒れてたんだぞ。暑さにやられたんだな」
「え…っと…」
「口は利けるみたいだな。起きられるか?」

僕の狼狽などどこ吹く風で美しい人は問いかける。
その問いに導かれるように僕はこくりと頷き、そろそろと起き上がった。
すると彼はじっと僕の痩せた首筋を見つめる。

「ちょっと待ってろ」
「え?」
「大したものはねぇが、何か食えるものを持ってくる」
「…へっ?」

僕の戸惑いにはお構いなしで彼はさっと立ち上がり、さっきの戸の向こうに消えてしまった。

 僕がぽかんとしていると、間もなく握り飯を載せた皿を携えて彼が戻ってくる。

「ほら」

彼は無愛想に皿をぐいっと突き出すが、僕はそれを疑わしげに見つめ返した。
僕の視線をどう解釈したのか、彼は綺麗な唇をぶすっと尖らせる。

「毒なんか盛ってねぇぞ」
「いや、そうは思ってないけど…あの、僕が誰だか知らないの?」
「あ?」

上品な顔つきに似合わぬ荒っぽい口調で、彼は眉を顰める。
その仕草で、いよいよ彼が本当に、自分が拾ったモノの正体に気付いていないらしいことを悟った。


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