『彼』との――邪王との幾度目かの邂逅から数日が経過したある日のことだった。ソフトンが木陰で随分読みあぐねていた本を読んでいると、静観をぶち破るような二つの怒鳴り声が聞こえてきた。




「ふざけんのも大概にしろよ破天荒!」
「ふざけてんのはテメェだろうがクソガキが!」




向い合わせでいがみ合う金髪と銀髪――破天荒とヘッポコ丸だった。ヘッポコ丸が怒鳴っては破天荒が怒鳴り返し、それに乗ってヘッポコ丸がまた金切り声を上げて、破天荒が言い返して…それを繰り返して、口論を繰り広げていた。


ソフトンは読んでいた本から顔を上げて、その光景を物珍しそうな表情で眺め始めた。




珍しい――というか、二人が口論しているところを見るのは、随分と久しぶりなような気がした。以前は毎日のようになされていたそれは、いつの間にか衰退して退廃していたような気がする。事実、ここ数ヵ月程、二人が口論している姿を見ていなかった。





その原因は恐らく、ヘッポコ丸の破天荒に対する恋慕によるものであろう――ソフトンは容易くその仮定に至った。この仮定に、一体何人の仲間が行き着いているのだろうか。ソフトンはぼんやりとそう考えて、相変わらずその光景を眺めていた。




本来ならば、その口論を止めなければならないのだと思う。不毛な言い争いと見なし、バビロンの裁きを与えても良い筈である。しかしソフトンは敢えてそうしようとしなかった。止めることに躊躇しているわけではなく、ヘッポコ丸にとって良い兆候だと判断したからだ。




破天荒に恋心を抱き、不用意に近付くことを避け、受け入れられない想いに苦悩して、連日涙を流していたヘッポコ丸。その彼が今、自分から破天荒に関わりに行っている。どういう心境の変化なのかは分からないが、きっと破天荒に寄せていた恋情に、なにかしらの踏ん切りがついたのだろう。それに伴って、以前のような『犬猿の仲』に戻ろうとしているのかもしれない。



それならば、わざわざそれに水を差すような真似はしない方が良いだろう。そう決め付けたソフトンは本を閉じ、本格的にその口論を眺める体制に入った。――これが間違った判断だったと後悔するのは、これから約数分後という、とても近い未来である。





「なんだ、また破天荒とヘッポコ丸はケンカしてるのか?」




ヒートアップしていく二人の口論を眺めていると、ひょっこりと何処からかボーボボが現れた。呆れた声音でそう言って、ソフトン同様にその光景を眺める。ソフトンはその神出鬼没ぶりには最早ツッコミすらも入れず、「そうみたいだな」と普通に返した。




「最近はケンカしてないみたいだったのになー」
「なんだ、お前も気付いていたのか?」
「そりゃああれだけ毎日毎日やってたら分かるだろ」




確かに、ボーボボの言う通りだ。本当に数ヵ月前までの――以前までの二人は、毎日毎日、一体どんな理由でそうなるのか聞きたくなる程に口論を繰り広げていた。よくもまぁ毎日そこまでいがみ合う程のネタが見付かるな…と内心呆れよりも感心していた程だった。


小さな事に大きな事。些細な事に重大な事。理由と原因はそれぞれだったが、どんな理由と原因であったにせよ、その全てはイコールで口論に繋がっていったのである。故に、連日二人の口論は後を絶たなかったのだ。


それが数ヵ月間、見る影もなく途絶えていたのだ。気付かない方が異常だと言えよう。




ソフトンは、その口論が途絶えていた数ヵ月間のヘッポコ丸の苦悩をボーボボに打ち明けるべきなのか、少し迷っていた。彼は二人のいがみ合いが一時期途切れていた事実にいぶかしんでいる。…いや、ボーボボだけではないだろう。あからさまに開いた二人の距離は、さながら天変地異が起こったかのような混乱を引き起こしているようだ(少々言い過ぎかもしれないが、前に首領パッチや天の助が破天荒に「ヘッポコ丸に何かしたのか」と聞いていた程だから、もしかしたら言い過ぎではないのかもしれない。あの二人でさえ不審に思うほどのことなのだから)。



あまり力になれなかったとはいえ、ヘッポコ丸が一番不安定だった時期に一番近くに居たのはソフトンだ。――いや、ソフトンだけではない。『彼』も居た。[居た]という表現には些か語弊があるが、この際それは重要視する程のことでもない。ここで重要なのは、ヘッポコ丸の葛藤を如何に受け止め、理解しようと悩乱し、彼の心を癒そうと努力していたか…ということではないだろうか。


実際に癒せたかどうかはソフトンにも分からない。もしかしたら毛ほどの役にも立たなかったかもしれない。だけど、[側に居た]という事実は消えない。彼の苦しみを『彼』と共に分け合ったという自己満足も存在している。ボーボボに事情を話すぐらいは、今のソフトンには造作もないことなのである。



しかし…とソフトンは思い直す。



未だ破天荒に告げていない想いを、第三者である自分が、赤裸々に語って良いものだろうか。…いや、良くは無い。寧ろ悪いだろう。仲間とはいえ、他人の恋愛事情に深く首を突っ込みすぎるのも人としてどうだろうか…。打ち明けるべきだとは思うけれど、それはヘッポコ丸自身がやらなければいけないことだ。ソフトンが代弁する必要は無い。――代弁で、済ませてはいけない。



一人で迷って一人で結論を出したソフトンは、そんな思考回路を巡らせていたなどと悟らせぬよう顔には一切出さず、「まぁ二人にも何か事情があったんだろう」と当たり障りのない、ひどく的外れな答えを返した。ケンカにどんな事情がいるんだ…とボーボボは思ったが、ソフトンのそういうズレた発言が珍しすぎて、ツッコむことも忘れて「だな」と返してしまった。出来れば修正してほしい発言だった。




「あーうざってぇ。これだからガキの相手は嫌なんだよ」




口論に心底嫌気が差してきたらしい破天荒が棘を含んだ声色でそう吐き捨てた。それに直ぐ様ヘッポコ丸が噛み付く。




「俺だっておっさんの相手してやる程暇じゃないんだよ」
「ほんっと可愛くねぇガキだなぁ。だから俺は――」




「だから」の時点で、ソフトンはその先に紡がれる言葉が読み取れた。そしてそれが、ヘッポコ丸の中に存在しているのであろう地雷の起爆スイッチであることも掌握していた。




言葉を続けさせてはいけない――




しかし止めの姿勢に入った時には、もう…遅かった。




「――お前のことが大嫌いなんだよ」




放たれてしまった言の葉。最早消し去ることの出来ない、現実味を帯びた残酷なる事実。



破天荒はきっと、嘘など言っていない。今の言葉は恐らく本心。心の奥底から、ヘッポコ丸に対する拒絶反応が現れている。破天荒がヘッポコ丸を嫌っているのは周知の事実ではあったけれど、こうして直情に告げたことはあっただろうか。…いや、恐らく無かった。態度では示していたけれど、直接的な言葉で言い表したことは今まで一度も無かった。




初めての、ハッキリとした嫌悪である。




案の定、その言葉を聞いたヘッポコ丸は一瞬にしてその表情を変えた。血の気が失せ、蒼白となり、泣き出しそうに顔を歪めた。――けれど、破天荒に気付かれぬ内にそれを打ち消し、元の気丈な、『生意気な子供』を取り繕って直ぐ様応戦した。




「ふん、俺だって、アンタの事なんか――」




言葉は繋がらなかった。それよりも先に、ヘッポコ丸の瞳から隠しようのない程の膨大な涙が、零れ始めたから。



『生意気な子供』を完璧に演じるには、精神が追い付かなかったのだ。




「お前、なに、泣いて…?」




それに驚いたのはヘッポコ丸だけではない。破天荒も、突然の涙に怒りも何処かに飛んだらしく、ひどく困惑したような声でヘッポコ丸に問い掛けている。ヘッポコ丸は涙を止めようと奮闘しているようだけれど、そんな意思とは裏腹に、涙は止まるところを知らなかった。




「ぁ…ご、ごめん…俺、あれ……?」




感情のコントロールが制御不能になっているようで、涙とは逆にヘッポコ丸の精神は状態は至って正常である。けれど、それが涙に飲み込まれるのも時間の問題で――




「や、だ…何コレ、止まんなっ…」
「おい、ヘッポコま――」
「ごめんなさい…!!」




そう言い放って、ヘッポコ丸は破天荒に背を向けて森の中に走り去ってしまった。破天荒が彼を呼び止めてはいたけれど、その声にヘッポコ丸が振り返ることも立ち止まることもなかった。破天荒は追うこともせず――出来ず、ただその場に立ち尽くしていた。



訪れる静寂。経緯を見守っていた――というか立ち入るタイミングを完璧に逃して傍観しているしかなかったソフトンとボーボボ。ボーボボは何が何やら理解出来ていない様子だったが、ソフトンは違う。ヘッポコ丸がどうしてあんな風に涙を流したか、あの場を走り去ったのか、ソフトンには容易にその理由を模索出来る。





あの口論は、ヘッポコ丸の虚勢だったのだ。どういった結果で破天荒とまたああいう風に接しようと考えたのか、細かいところまでは分からない。けれど、あれが虚勢だというのは間違いではないだろう。無理に以前の自分を装い、破天荒との関係を修正しようとした――修正したかったのだ。



しかしその虚勢は、思いがけない破天荒の一言で脆くも崩れ去った。張っていたバリアーが、粉々に砕かれてしまったのだ。




心が、そこまで強化されていなかったのだ。




「ボーボボ、破天荒を頼む」
「は?」
「俺はヘッポコ丸を追う」
「あ、おい、ソフトン!」




いまいち理解が追い付いていないボーボボに破天荒を押し付け、ソフトンはヘッポコ丸の後を追って走り始めた。破天荒の横を通り過ぎる際、責めるような目で睨み付けるのも忘れなかった。




――――




ヘッポコ丸は、森の奥の大木の下に踞っていた。肩が震えているのが遠目でも分かる。涙が、感情を飲み込み始めたらしい。




「ヘッポコ丸」




声を掛けると、大袈裟に肩が跳ねた。恐る恐る…といった風にゆっくりと上げられた顔は、やはり涙で濡れて酷い有り様だった。




「…ソフト、さ…」
「大丈夫か?」




大丈夫な筈がないだろう。そう思っていても、口をついて出たのはそんな安直な言葉だけだった。こんな時、慰め方を心得ていない自分に嫌気が差す。


ヘッポコ丸はゆっくりと首を振って、泣き顔のまま歪な笑顔を作り、話始めた。




「ダメ、でした。俺、もう破天荒を好きでいるの、やめようって、思ったんです。だから、ケンカ、吹っ掛けたんです」
「………」
「前みたいにケンカばっかりしてたら、きっとこの想いも無くなるって、思ってたんです。けど、ダメ、でした」
「………」
「ただ、嫌いって言われた、だけ、なのに、こんな、バカみたいに…!」
「もう良い、話すな」




新たに溢れてきた涙と嗚咽で言葉を繋げるのが困難になってきた時、ソフトンは話すことを強制的に止めさせ、ヘッポコ丸の体をキツく抱き締めた。幼子がぐずりだした時にするような、そんな抱擁だった。




恋情に踏ん切りをつけたかった事は、ソフトンの読み通りではあった。しかし、時期が早すぎた。まだ、以前のように振る舞うことは避けなければならなかった。メンタル面が崩壊寸前だったヘッポコ丸は、破天荒にケンカを吹っ掛けるなどという高ハードルに挑んではいけなかったのだ。




口論を止めに入らなかった自分をひどく悔やんだ。ソフトンは先程の、状況を楽観視していた自分をひどく責めた。




「今は、好きなだけ泣けば良い。…いや、今だからこそ、泣くべきだ」
「ふ…」
「無理に恋心を忘れようとしなくていい。そうやってたくさん泣き、感情を発散させて、少しずつ消化していくのが最善策だ」
「っ…」
「泣きたい時は俺を頼るといい。邪王だけでは心許ないだろう。『彼』は話は聞けども、俺のように抱き締めてやれないからな」
「ソフトン、さ…」
「なんだ?」
「すいませっ…俺、迷惑ばっかり…っ」
「気にしなくて良い。迷惑だなんて思っていない。俺はただ、お前が早く[自分らしさ]を取り戻してほしいだけだ。そのためなら、喜んでこの手を差し出そう」




微力ながら、ヘッポコ丸を支えたいと思っているのは事実だ。泣き崩れるこの子が、以前のような明るい笑顔を振り撒いてくれるのを願うばかりだ。この子の師として、道標の役目を担うのは必然だ。


自分が力添えして未来が違う形を創造するのなら、余すことなく助力する。そう心に決めたのだ。





ヘッポコ丸の気持ちも邪王の気持ちも尊重出来ないのなら、せめて結末をしっかりと見届けたい――愚かなる助力者の、愚かなる選択だ。分かっている。けれど、もう、こうするしかないのだ…。




自分自身が邪王に言ったのだ。『何を一番の幸福かと捉えるのは、ヘッポコ丸自身だ』と。第三者が決めるべきではないのだと。




だから、時間の経過に全てを委ねた。ヘッポコ丸自身の意思に、全てを託した。




その結果が――虚勢の崩壊、だった。




「ソフトンさんっ…!」




我慢の限界を示すかのようにソフトンに強く縋りつき、一層涙に濡れた声で、今までに無かったのではないかと疑いたくなるほどの声量で、ヘッポコ丸は泣いた。泣き叫んだ。決壊したダムのように涙は止めどなく溢れ、地面とソフトンの服を冷たく濡らしていく。身体中の水分を全て排出してしまうかの勢いで、涙は零れ落ちていく。



震える肩を抱き、目頭を自分の肩に押し付けるようにして頭を抱え、ソフトンはその涙を静かに受け止めた。その涙が枯れ果て、疲れ果てて眠ってしまうまで、ソフトンは何も言わず、初めてヘッポコ丸の涙を見た時と同じように、ずっとずっと側に居た。きっとこの子の内側では、『彼』が言葉で慰めているのだろう(否、貶しているのかもしれない)。言葉にするのが不得手なソフトンよりも、『彼』の方が慰める術を知っている筈だ。


勝手な想像でしかないけれど…一番長くヘッポコ丸を見てきたのは『彼』――邪王だ。パッと出の自分より、言葉は彼に任せてしまうのが良いだろう。押し付けてしまっている感は否めないが、仕方無い。変に慰め、期待を持たせてしまうのはきっとヘッポコ丸自身のためにならない。邪王だって不本意だろう。他の誰よりも、ヘッポコ丸のことを考えているのは邪王だから。




ソフトンは、初めて涙を見た日よりも幾分頼りなくなった背中をあやすように撫でながら、これからの日々に思考を巡らせた。
















新たな決意を秘めた虚勢は脆くも崩れ、涙はまたこの子を蝕む。



一体いつまで、神はこの子を貶めたいのだろうか――





















――――
崩れ落ちる涙
シド/sleep




→『涙』シリーズ第三話。以前の二人を取り戻したかったへっくん。しかし、もうそれも叶わないのか…? そして、これから先、ソフトンが取る行動は…?

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