書簡に尚書代印を捺しながら、李絳攸は積み上がった書物を見て、眉を寄せる。
向かい合って読書に耽る紫劉輝は真剣な顔をしている。
このところ、王のやる気はずば抜けていた。
午前中は会議にきちんと出席して、午後は府庫に篭って勉学に励む。国王として至極当然のことだが、今までの昏君ぶりが嘘のような勤勉さだ。
そんな劉輝に、「これも嫁効果じゃ!!」と、霄太師はほくほく顔だった。
……日が沈む頃、不意に戸口に陰が差す。
顔を上げると、そこには「失礼致します」と、快活な微笑を浮かべた少女が立っていて、劉輝はぱっと顔を輝かせた。
「秀麗!迎えに来てくれたのか!」
「こら、まだお勉強の時間でしょう。差し入れを持ってきただけよ。……今日は何を勉強したの?歴史?それとも語学?」
「今日は北方の民族について勉強したのだ。それから、」
和気あいあい、という言葉がぴったりのその会話を、絳攸は後ろから眺めていた。
まだ十六歳の后妃は、王よりも年下の筈なのにしっかりとしていて、時折垣間見える微笑は母親のそれに似ている。
二人の結婚には政治的な要素が大きく関与していたが、夫婦仲は睦まじく、兄妹、或いは姉弟のように随分と仲がいい。
古来より、国の乱れは女が原因という言葉がある。夫婦の仲が良いということは望ましく、側近として絳攸は喜ぶべきだ。
けれど、秀麗のことを無邪気に慕う劉輝に、絳攸は違和感を覚えずにはいられない。
劉輝はいつも彼女の迎えを心待ちにして、秀麗に褒められると子犬のように顔をほころばせる。
本来なら、そんな王の姿を見ることは喜ばしい筈だ。(それなのに何故、ここまで居心地悪い気分を味わうのだろうか)
お茶にしましょう、と、秀麗が慣れた手つきで茶器を用意する。桜色の湯呑みに新緑が注がれていくのを、絳攸はじっと眺めていた。
「絳攸様は緑茶はお好きですか」
「ああ」
「良かった。お菓子もあるから、お好きなものをどうぞ」
そう卓子に広げた花菓子は手が汚れないように一枚一枚薄紙が巻かれていて、(気の利く娘だ)と絳攸は思う。
向かい側に座った劉輝は「秀麗は余の隣に座るのだ」と、嬉々として手招きしていた。
その表情に、絳攸はようやく違和感の正体に気付いた。
秀麗がお茶を煎れてくれている。たったそれだけで、劉輝は蕩けそうな微笑を浮かべていた。
それは愛妻を見つめている夫の眼差しなどではない。
熱っぽい視線にはちがいないのだが…、無条件に母親を慕う、無垢な子供の眼差しをしていた。
憑き物が落ちたような、さっぱりした気分。
「……絳攸、そなたも花菓子を食べないか。秀麗お手製だぞ」
「は、あ」
満面の微笑みでそう振り返った国王に適当な返事をして、絳攸はこめかみを抑える。
そういえば…この王は母親を早くに亡くしていた。
母性に飢えて育った青年が、恋い慕う女性にそれを求めて、どうして咎められる?
(でもそれは、恋ではない)
心底そう思った。
母親に向けるべき慕情を、うら若い妻に寄せてどうする。余りにも不毛だ。
紅秀麗はいたって思慮深げで、劉輝の口許をかいがいしく手ぬぐいで拭いている。
お砂糖が付いてるわ、と、微笑んだ彼女は、十六歳とは思えない、大人びた表情をしていた。
穏やかな夫妻の姿に、絳攸は差し出されたお茶を受けとって、ぼんやりと考える。
(俺だったら、もっと激しく愛してやれるのに……)
ごくごく普通にそう思ったとき、絳攸は一拍おいて茶を吹き出すという大失態を演じた。お、俺は今何を考えていた!!!!
これには落ち着き払った様子だった秀麗もぎょっとする。
「だ、大丈夫ですか、絳攸様!」
「す、すまない、だいじょうぶ、だ…!」
片手で口許を押さえて、絳攸は必死で呼吸を整える。かつてないほど動揺しているが、最悪に空回りして何一つ上手い言葉が出てこない。背中に嫌な汗が伝う。
絳攸は生まれてこのかた、これほど自分が馬鹿だと思ったことはなかった……。
雑巾を取ってきます、と、秀麗が席を立つと、府庫には劉輝と二人きり。
気詰まりな沈黙に、絳攸は視線を足元に向ける。しかし、劉輝は口許を綻ばせると、「絳攸はやはりドジっ子なのだなあ」と、無邪気に微笑んでいた。
……最近になって気付いたことだが、この王は愛想が悪いわけではなく、感情表現が乏しいだけなのである。秀麗を妻に迎えてからは表現の幅が広がったのか、ふとした拍子にこんな表情を見せる。
そのあどけない笑顔に、絳攸の心拍数は俄かに上昇した。ヤバイ、これは病気だ、自分は重病なのだ。(こんなガタイの好い男を、可愛い、だなんて)
視界がぐにゃりと歪む。首許まで紅く染め上げて、後ろ向きに卒倒した絳攸に、劉輝は目を丸くした。
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うぶな絳攸は攻めでも可愛い^^