千紫万紅、柳緑花紅
□二の章 神無の冬 B
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二の章 神無の冬 B
虎落笛(もがりぶえ)
木枯らしが柵や竹垣、電線などに吹き付けて放つ、ひゅーんひぃーんっという笛のような音を“虎落笛”という。それで虎をも避けたのか、竹を筋交いに組んだ柵を“もがり”と呼んだことから来る言葉だそうで。強い北風に泣かされて、高く低く尾を引いて響くそんな物音は、厳しい冬の到来を知らせる、物哀しげな呼び声には違いなく。ついつい身をすくませて辿るは家路。屋根へと分厚く敷かれた茅葺きの中から、もやりと立ちのぼる湯気の影が、囲炉裏の暖かさを偲ばせる。
「…ただいま。」
居室の囲炉裏端に敷かれた夜具に身を起こし、ぼんやりしている姿へと、まずは声を掛けてやる。広々とした三和土(たたき)土間の先の、相当に痛んで古ぼけた板張りの壁の上。明かり取りを兼ねての連子窓が空いているのを、遠く遠くを望むように眺めやる、すっきりとした横顔が、外から戻って来ると まずはと眸に入るからで。金の髪や白い肌が、射し入る光に淡い反射を為してその輪郭をぼやかしており。赤い色味が玻璃玉みたいに透いた瞳は、何を映しておるものか、やたら遠くて掴み難く。とはいえ、
「………。」
帰って来た家人への関心が、向かない彼ではないようで。なめらかに意識を切り替えると、構っておくれとの眼差しを、こちらへしきりと向けても来るようになった。
「外は随分と寒くなりましたよ。」
土間で外套を脱ぎながら、そんな風に話しかけつつ歩み寄れば、こちらに先んじてのこと、どらと片手を伸べて来て、
「おお。」
本当だとびっくりして見せるのへ、
「ああほら、
冷たい手をわざわざ触って
どうします。」
やんわりと笑って差し上げ、そんな所作の弾みで細い肩から落ちた綿入れを、そっと掛け直してやる。掃除や洗濯、ちょっとした炊事などなどと、家事を一人で切り盛りし、そんな手が空けばすぐにもその傍らへ寄ってくれる七郎次へと、以前よりもずんと懐っこく、視線で甘えたり擦り寄ったり、話しかけてさえ来るようにもなった久蔵だったが。そんな彼の態度は、無聊をかこつ身の相手ほしさというよりも、
“何かを隠しての
無理からの愛想か、
それとも…。”
不用意に内面へと入り込まれぬためにと、取り急ぎで設けた楯や鎧としか見えなくて。
“刀の他では
不器用なお人なんだから…。”
それがあっさりと判ってしまう、自分の鋭さは棚に上げ、困ったお人だと案じてのこと、目許を細める美丈夫さん。あの途轍もない治療の後、最初の1週間は起き上がることさえ腕へと響こうから厳禁とされ、十日が経ってやっと、寝間で身を起こしてもいいというところまでの許可こそ取り付けた。とはいえ、まだまだ快癒まではずんと先が長い重傷者。あの激しい戦いの最中では、彼もまた右腕以外にもあちこち被弾していたし、軽くはない怪我だってたんと負ってもいる身。都相手の戦さも終わって、錯綜していた状況も一応は収まったことだしと、のんびり養生していればいいものを。まるで停まったら呼吸出来なくなるという回遊魚のように、無表情のその下で、何とも苦しそうな顔をしている彼だと、七郎次にはつくづくと判る。だが、
“………。”
怪我は怪我だと、時が経たねばどうにも仕方がない手合いのものだと、そのくらいは…それこそ久蔵ほどの冷静怜悧な合理主義者に判らないはずがないだろうに。それでもこうまで焦れているのは、一体どうしたコトなのか。
「………。」
肩のすぐ間際から親指の付け根が埋まるまでというほどもの不自由さで、石膏で固めてある重い腕。起き上がったときに載せるよう、うずたかく座布団の類を重ねた山が枕元に据えられてあり。起きたときに腰などが疲れぬようにと気遣って、村の器用な細工師さんが、木彫りの座椅子を作ってもくれていた。いくら双刀を自在に操っていた彼だとて、他のことまで両手で同じように処せるというものではなく。食事や着替えや何やには、七郎次が甲斐甲斐しくも手際のいい給仕や補佐をこなしており、甘やかし上手な彼へは、以前からも構われていた下地があったこともあり、抵抗なく世話を焼かれている模様で。表面上はそれは静かに、快癒への日々を送っている穏やかな日々でしかなく見えもするのだが、
“食欲が日に日に落ちていますしね。”
お給仕をする七郎次だから判ること。身体全体の消耗が癒えて来るにつれて、食事も重湯から普通のそれへ戻ったというのに、ほんの数口かそこらで、申し訳無いとの言葉とともに匙を受け付けなくなる。体を動かさないから腹も減らぬと、そんな言い分を付け足す彼だが、伏したままだった最初の頃に比すれば、結構身動きをしているのだから、そんな理屈はおかしい。
「…おや。」
自分がちょいと炭小屋までを出掛けていたのは、彼がうとうと転寝しかかっていたことと、午前中は哨戒の差配に出ていた勘兵衛が囲炉裏端へと戻っていたからで。それで“後をお任せしますね”と勘兵衛へ言い置いて、此処を後にしたのが小半時ほど前だったか。衾の上へ身を起こし、座布団の丘へとその右腕を載せているということは、身を起こした時はそれを手伝ったろう勘兵衛が居たらしかったが、今は何用でか姿がなく。そして、
「…これは、どうしましたか?」
布団の陰から覗いていたものを、はっとしたご本人より先にと取り上げる。よほど使い古されたものか、小豆だろう中身も少なく、側生地も陽に晒されてか古ぼけた風合いになっている。他愛のないお手玉ではあったけれど、
「こんなものを、
それも右の手で弄ってもいいとは、
医師殿からの許可も
まだ降りては
いませんでしたよね?」
「………。」
後で聞けば、部屋の隅に追いやられていた、姿見を据えた鏡台の引き出しに入っていたのだそうで。誰もいなくなったわずかな隙に、何かないかと…痛くて重い右腕を抱えつつ、文字通りじりじりと這うようにして探した末のお道具だったらしくって。とはいえ、
「何か掴む練習だなぞと、
まだまだ早いでしょうに。」