千紫万紅、柳緑花紅

□四の章 北颪 きたおろし 外伝 @
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      序



 人も土地も、産業も流通も経済も、荒れて乱れた戦後の混乱期に生まれいで、十年足らずの僅かな空隙、あっと言う間に繁栄を遂げたのが、荒野のただ中に撃墜されし本丸戦艦を土台に発展したらしき、虹雅渓という名の交易の街で。そこの最下層にあった歓楽街きっての名店、お座敷料亭“蛍屋”のシチロージといえば、癒しの里でも名の知られた名物幇間だったとか。
お座敷に上がっての盛り上げ方にも厭味がなく、上背もあるし身ごなしも切れのいい、すこぶるつきの男ぶりのよさへと愛嬌を滲ませての賑やかしの妙は、そりゃあ巧みで、しかも軽やかに小粋。座敷に出始めの頃は、彼のあまりの美丈夫ぶりに嫉妬してか、満座の中で恥をかかせようと企むような、小意地の悪いお客人もないではなかったが。そういう輩へもことごとく、品よく対処できるよな人性の深さや袖斗(ひきだし)の多さが、却って彼の評判を高めてしまったほどでもあって。何となりゃ元はお侍だったらしい腕っ節なり威容なりがあるにもかかわらず、どんな無体へも緩急自在に応対出来るが…出来れば穏やかにと持ってく腕をば、

『余程のこと、
 対人関係への機微
 というものに於いてを
 鍛え抜かれたお人なんだねぇ』

 なぞと感心されていたものだったが、そのたびに青い宝玉のような瞳が据わった目許をはんなりと細めては、

『なに、とんと野暮なところで、
 芸もないまま
 さんざ頭を下げ続けただけ。
 我慢が利くのはそのせいで、
 うだつが上がらぬ立場が
 長かっただけのことでさぁ。』

 誰の話をしているものなやら、やはりさらりと言って笑い飛ばす彼ではあって。ただ…昼間の手空きの折なぞの ふとした拍子。こんな最下層からでもわずかながらに望める空を見上げては、ぼんやりとしていることが稀にあり。そんな時の彼のお顔は何とも言えぬ艶があって、

 『ともすりゃ
  お武家様の未亡人みたいでねぇ』

 品がありながら されど、どこかで罪作りなまでに切なげな。何か遠いものへと恋こがれていなさる胸の裡(うち)、ちらり覗かせておいでなような。そんなお顔だったねぇと、古顔の仲居たちの間でしみじみ語られてもいるそうな。

  「…何ですか、
   その“未亡人みたい”
   ってのは。////////」

 あら、だって。誰か様を想うよな遣る瀬ない溜息とか愁いを帯びた切なそうな眼差しだとか、お前さんは隠してたつもりでも隠し切れなくて覗いてたあれやこれやの数々は、店の皆が知っておりますよ? 今は内儀の雪乃からけろりと言い当てられては、たははと苦笑し額を叩く所作のみが、その頃の名残り。よじよじとお膝を登って来ようとする かあいらしい愛娘を、こちらからひょいと抱き上げ、いい匂いのする懐ろへと掻い込んでやり。人並み以上の至福にある自分を自覚しつつも、

 ― ああ、
   遠くまで
   来てしまったもんですねぇ。

 これがすごろくの上がりなら、なんて上々な結末だろかと喜ぶべきところなのだろうにね。今なお この胸を切なくも振り絞ってやまぬ、とある想いが秘かにあって、

“誰もが忘れ去りたい
 悪夢である筈なのにねぇ。”

 選りにも選ってあの忌まわしき大戦の最中であり、文字通り“命のやり取り”をしていた最前線。相対的にはとんでもなく苛酷な日々だったはずなのに。大変な毎日だったからこそ…だのにそれを巧みに掻いくぐっておれた緊迫が心地よく。そりゃあ充実していて、自分にとってはそれ以上はなかろう幸せだった頃があっての忘れられず。

“アタシも
 どこかが歪んだままだって
 ことでしょか。”

 あんな時代にあまりに強く焼きつけられた想いゆえ、今の安寧の世の 何を持って来たって、埋められないし拭い去れやしないのも無理はないということか。幸せな筈の今でさえ、我知らず悩ましげなお顔をすることがある夫を、しようのないお人だねぇと苦笑混じり。見て見ぬふりして優しく見守ってくれている、そりゃあよく出来た妻が添うてくれていることこそが、彼にとっての最大のご褒美であるのだろうて…。






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