千紫万紅、柳緑花紅

□五の章 さくら @
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   雪華香




 いち早くの人知れず、水がぬるんだ沢に擽られての地表近くから先に。根雪が溶け出して出来た雪の割れ目へ ひょこりと顔を覗かす可憐な花が、村の外れのあちこちで見受けられるようになった。そんな咲き方をすることから、ついた名前が“雪割草”。吹きつける寒風に萎縮し、堅くなっての枯れて見えるばかりだった木々にも、気がつけば小さな小さな新芽の膨らみが宿っており。空を覆っていた重苦しい灰色の雲も、日を追って真綿をはがしてゆくように、薄くなりつつ去りつつあって。そうともなれば、


 ― いよいよの春も間近


 とはいえ まだまだ辺りには、雪の白にのみ深閑と覆われた、生き物の気配さえない殺風景な景色しか見渡せず。街との狭間に広がる荒野には、雪さえ飛ばして留めぬほどの、身を切り、骨まで凍らす冷たい突風が依然として吹きすさぶばかり。か弱い人間が出歩くには どうにもまだまだ日数が要るだろう、そんな凍野を…だからこそ こそりと行き来する人々があって。表向きには春を迎える準備の買い出し。その実、行きと帰りでは頭数が微妙に違うという格好での、とある移動が秘やかに敢行されていた。

 ― 虹雅渓は蛍屋へ

 神無村より南にあるせいか、こちらでは既に 桜樹の梢に幾つものつぼみが見受けられ。寒さが薄れ、身を縮めていなくともよくなったせいだろか、町を行き交う人々の様子にも、表情や所作、話し声などから、どこか軽やかな華やぎが感じられもして。あの大戦ほどではないにせよ、世の中の仕組みが大きく変わらんとしていた時代の流れの変動と、それを勝手に致そうとした連中の眼前へ、無理から立ち塞がって圧し止めた勢力との凄絶なまでの鬩(せめ)ぎ合いがあったことなぞ、ほんの欠片ほども知らぬまま。それはそれは屈託なく、来たる春を待っての微笑む人々の中へ。さりげなく紛れ込み、やがては散り散りに立ち去ろうとしていた彼らこそ、その春を例年にないほど暖かく豊かにした功労者たちでもあったりしたのだが。

 ― そんな事実ごと、
   全ては埋めて隠して
   なかったことに

 それが誰のためにも一番いいと、他でもない彼らが決めたこと。よって、春が来たれば さよならと、冬になる前に決めたこと。待ち遠しいが同時に“お別れ”も運び来るという、もうすぐ訪のうは そんな春でもあったのだった。





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