千紫万紅、柳緑花紅 2

□五の章 さくら E-序
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   料 峭 〜序



あれは何時のことだったろか、
七郎次が言っていたことを
ふと思い出す。
時折 顔を見に戻る
“蛍屋”での
ことじゃあなかったか。


 ― 勘兵衛様は、
   風のような
   お人ですからねぇ。


口の重いは相変わらずな久蔵を、
こちらも相変わらず、
母御のように構うのが
常の七郎次であり。
母屋での歓談で時を過ごして、
宵も更けたと通されたのは、
いつも逗留する離れの一室。
つやが出るほど
よくよく磨かれた桟に肘をかけ、
小粋な庭へと眸をやって。
りいりいと鳴く虫の声に耳傾けつつ、
夜陰垂れ込める 窓の外、
何を見るでなく眺めておれば、

 「とんだタヌキに
  惚れてしまったこと、
  じりじりしておいで
  なんじゃあありませぬか。」

年月を経て得たものか、
何にも動じずの、
激さず、納まり返っているのが
面憎いと。
風呂に向かって
不在となった勘兵衛のことを差し、
こそり、
水を向けて来たことがあり。

 「…。」

冷然とした態度の下に秘しての、
そうそうは窺えぬだろうこと。
だのに、この彼にかかっては、
こうまであっさり
見透かされているものかと。
思いも拠らぬ奇襲に遭って、
紅の双眸が
仄かに揺らいだことが、
そのまま“是”という
お返事になってしまったようであり。

 「…。」

何と言っても、
相手はこちらの意を酌むのが
上手なおっ母様。
嘘さえつけない不器用者が、
往生際悪く
隠しだてをしたって始まらぬ。
彼を相手に
片意地張っても詮無いことと、
そこはあっさり
思い直したものの、

 「……。」

こちらは
相も変わらず言葉が足らぬ身。
この腹の底の
曖昧なくすぶりは、
はて何と言ったらいいものか。
胸の裡(うち)を
爪繰りもっての、
躊躇とも困惑ともつかない、
戸惑うような様子を見せておれば。
やさしい目許を
やんわり細めた七郎次、

 「これは…
  心当たりが有り過ぎな
  ようですねぇ。」

さもありなんと先に言い当て、
それは柔らかく微笑って見せる。
行儀のいい手が
そりゃあ優美に茶器を操り、
冴えた夜気の中へ
清かに香り立つ茶を
丁寧に淹れると。
いつもの習慣、
手のひらの中にくるみ込み、
熱さを微妙に宥めてから、
あらためての“どうぞ”と、
丸みも懐っこい
磁器の湯飲みを、
塗りの盆にて渡して下さり。
そして、

 「勘兵衛様は、
  風みたいなお人ですからねぇ。」

自分にも
心覚えがあるというよな口ぶりで、
そんな意外な言いようをした。

 「…風?」

 ― あんなに存在感がある
   もののふだというのに?

確かに流浪の身ではあるけれど、
経験という
蓄積を突っ込んだ
袖斗(ひきだし)が多い身なせいか、
どんな場面でも
飄々と切り抜けてしまえる、
大胆さや度胸の持ち主であり。

 その気骨はいっそ
 頑迷なくらいに実直で。

風だなんて
取り留めがないもので
喩えられるような、
曖昧で浮ついた
人物なんかじゃなかろう。
そんな言う あなただとて、
頼みにしているではないかと。
久蔵が怪訝そうに
目許をしばたたかせたところ、
そんな反駁を
受け止めた上でだろ、

 「だって、
  これまで誰にも
  捕まえることが
  出来なんだお人ですからねぇ。」

七郎次は
ふふと小さく微笑って見せる。
けどでも、
そんなことを言う彼を、
ちゃんと覚えていた
勘兵衛ではなかったか?
生死も判らぬ状態で
離れ離れとなった七郎次が、
何とか生きながらえて
蛍屋にいること、
ちゃんと知っていながら、
でも逢いに行かなかった
勘兵衛だったのは。
出来ればそのまま、
触れずにおきたかったから。
それって…そんな形で
大切にしたがっていた、
幸せに暮らしなさいと
見守っていたということじゃあ
ないのだろうか。

 「……。」



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