千紫万紅、柳緑花紅 2
□五の章 さくら F
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東 風 〜またあした
序
人の心や在りようは、まこと、通り一遍なものじゃあないのだと。道理としては判っていたが、こうまで身に迫ってのこととして知ることになろうとは思わなくて。互いの心がちゃんと理解出来てもなお、侭ならぬことへともどかしかったり切なかったり。そんなジレンマに、自分の持ち物であるはずの“気持ち”が途轍もない不安にさらされ、手の届かぬところでヒリヒリと痛かったりした経験を、まさかこんな間合いで味あおうとは。
― 心が豊かになると
いうことは、
嬉しいことばかりじゃあ
ないのだな。
普通の人が言うたなら、何をまた気取った言いようをと、乾いた笑いを誘うばかりだったかもしれないが。勿論のこと、カッコをつけた訳でもなければ、誰ぞへの当てこすりというものでもなく。誰かしらの反応や評を伺うでもないまま、ごくごく自然に思ったことをそのまま言うただけな彼だと判るから。それを耳にしてしまった七郎次としては、
「そうなってしまったの、
おイヤでしたか?」
失くしたら辛くなるくらいなら、ささやかな幸いなんて最初から要りませんでしたかと。甘い風に乗り、どこから来るのかはらはらと、淡い緋色のはなびらが舞う中庭を眩しげに見やる白いお顔に静かに問えば、
「…。(いいや)」
ゆるゆると、かぶりを振ってのそおと否定し。そのまま、品のある口許がやわらかくほころぶ様こそ麗しく。
“ああ、
何という微笑い方を
なさるのでしょうね。”
大切に取り置いたまだまだ若かった酒が、いつの間やら深みを増してのじんわりと甘い、そりゃあ質のいい逸品へと変わりゆくように。冴えはそのまま、刹那的なところ尖っていたところが、いい意味で練られてのよくよく育ち。別れを前に切なげに目許を潤ました彼が、そりゃあ寂しそうなお顔を初めて見せた、あの時よりもずっとのうんと。その胸へつきんと来るもの、まざまざと感じてしまったおっ母様であり、
「?」
「いえいえ、
何でもありませぬ。」
綺麗なものへの称賛と、それから…少しばかりの寂寥と。嬉しいのだか哀しいのだか、綯い混ぜになっての複雑そうなお顔になったのへ。どうしたの?と小首を傾げた久蔵の白面へ、愛おしげにそおと触れ。嬉しくても切なくなるものなんですよと、そんなややこしいことを言いたげに、目許をたわめた七郎次であり。
「…そう、か。」
そこまでの複雑なものは、あいにくとまだまだ未経験の久蔵ではあるけれど。自分を想ってくれての感慨で、胸が詰まった彼なのらしいというのは判るから。頬に触れてる手の温み、忘れまいぞとするかのように。静かに眸を伏せ、されるに任せる。ただただ優美に大人しいばかりのその様は。実は獰猛な性ながら、主人にだけはとことん柔順な、正しく 伝説の聖獣のような佇まいであり。春先の桜花まじりのやわらかな風の中、目にした者へ溜息つかせずにはおれないほどの、それは優しい情景を、知らずに紡いでいたご両人だった。