斉藤君と幸人さん
□第一話
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「はい、下着とズボンです。ほんとに大丈夫ですか?」
彼は名前を斉藤大紀[サイトウダイキ]というらしい。
駅のトイレの個室に自分、扉の向こう側に彼という少し不思議な、当たり前のような状態の時に名乗られた。
「だ、大丈夫ですから、ほんとに…」
何度も何度も同じことを繰り返す彼に少し嫌気がさして答えた。
個室から出ると、彼はほっと息を吐いた。
「ああ、よかった。似合うじゃないですか」
買ったばかりであろうズボンをくれて、しかもそのうえコンビニで下着まで買ってきてくれた。
いい人過ぎやしないか。
「そ、それじゃあ、自分はこの辺で…あ、ありがとう、ございました…」
どもる、語尾が消えるは普段のこと。
気にして治ったらすごいもんだ。
「これからどこ行くんですか?」
何でも聞いてくる彼が自分は怖かった。
もうこれ以上、怯えるのは嫌だった。
「か、帰ります。ほんとは、ぎ、銀行に行こうと思ってたんですが、こうだから…」
「じゃあ僕がついていきます。倒れる前に僕が助けますよ、幸人さん」
訳の分からない男だ。
見ず知らずの人間にここまで尽くす。
名前連呼で。
…ん?名前連呼?
「あ、あの…」
「はい?」
「何で自分の名前、知ってるんですか…?」
「え、僕のこと、覚えてませんか?」
「………………」
考えた。
出てこない。
幼稚園、小学校、中学校、高校の同級生は顔と名前は覚えた。
自分は人の顔と名前を覚えるのは得意だった。
それでも出てこないのだから考えようがない。
本当に誰だ、この男は。
「まあ無理もない。幸人さんとは、後にも先にもこれで会うのが二度目ですから。初めて会ったのも何年も前でしたからね」
「二度、目…」
「思い出してもらえました?」
「…や、全然…」
年は同じくらいだろうから高校の同級生か…?
「…ふふ、なんちゃって、嘘です」
「は…?」
「僕たち初対面です」
「で、でも…名前…」
「幸人さんを介抱しているときちょっと携帯を拝借しました。しっかり自分のデータ入れてあるから驚きましたよ。マメなんですね」
「え、あ、えぇ…?」
「ついでに登録させてもらいました。これでいつでも連絡をとれます」
本当に嬉しそうに話すこの男が怖くてたまらない。
人のプライバシーの塊であるとも言える文明の利器、携帯。
それを使って持ち主の体調不良の時に許可なく勝手にアドレスやらを登録した。
この男には後ろめたさが無いのだろうか。
「幸人さん、今怒ってます?」
「ほぁえ!?」
「瞬きすごいですよ」
無意識だ。
「携帯を勝手に見たことは謝ります」
「いや、ちがくて、」
なんと言うか自分は怒ってはない。
ただなんとなく相手のことが分からないだけだ。
「幸人さん、銀行行きましょう」
「き、今日はいいです…」
「だって生活費とか手持ち尽きたんでしょ?」
「…何で知ってんですか…」
「だって幸人さんみたいな見た目からして出不精な人がわざわざ外に出て、しかも行き先が銀行ってお金引き出しに行くくらいでしょうから」
どうやらこの男は洞察力が優れているらしい。
自分の荷物を手に踵を返すとスタスタと歩いていってしまう。
「あ、自分の、鞄…」
「銀行行きますよ。大丈夫、僕がついてます」
結局自分はほぼ無理矢理銀行に行かされ何とかある程度の金額は引き出した。
「あ、あり、ありがとう、ございます…」
「いえ。じゃあまた」
彼とはこれで会わないだろうか。
眩しいくらい人のいい笑みを浮かべる彼を見ながらふと思った。
こんなに誰かに付き纏われたのは初めてだった。
(一般向けの)漫画のような展開に戸惑いながらも自分は、おてんとさんの視線と球と円柱の群れの視線から逃げるように帰った。
けど自分は忘れていた。
朝携帯が久しぶりに動き回っているのを見るまでは。
彼は、斉藤大紀は、家にまで、来てしまった。