sleep.03

□虚心を塞ぐ
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それは癖となって私に染み付いた。言い換えればそれしか遺っていなかったのだ。

「また治ってなかったんですね」

紅茶を両手に近付いて松田さんが笑う。困ったように眉を下げて切なく。
堪らない。
目を逸らしてしまうと、ははっと耳に渇いた笑いが届く。彼を思い出すのは一人の時だけで良い。これ程までにキレイな思い出は誰にだって立ち入られたくはない。例えそれが私の傷を知る人であっても。いなくなってしまった彼以外には。誰も。

「これは癖です」

「知っていますよ。ソファー、右側に座っている所しか見た事ありませんから」

竜崎がいた時からずっとですよ。
なんて残酷な言葉を吐く人だろう。優しい顔をして、やんわりと私を崖から突き落とすような。だけど悪気はない。
逸らした視界に見えているのは彼の両手に握られている湯気を立てる紅茶であるが、下がったままの眉と泣きそうなほど切ない表情は視界に入らずとも安易に想像が出来た。泣きたいのは私の方なのに。


左側が空いたままのソファーは小さめのサイズに買い換える事もない。彼の匂いすら消えたというのに駄目なのだ。
捨てたくはない、手放したくなどない。彼を繋ぐものは全て。
しかし幾ら待てども左の空席が埋まる事など有り得はしない事も解っている。それが悲しいと嘆いてみるが誰に向けたものなのかが解らない。
ただ、向けるならば会えない彼であれば良いとも思う。しかし叶わない事を願えば落胆と絶望しか先に待たない事を知っている。
叶わない。しかしそれを願いたい。

「竜崎…というかLは、きっと貴女を愛していたように思います」

「それは解っています」

「それならば余計に悲しいのでは」

「…そうでもないです」

予想を外れたのか驚いたように目を少し丸くされた。
彼が私をどう想っていたか。そんな事は今更関係ない。
悲しいのはただ彼がいない事だけで。ソファーの左側がやけに寂しい事だけで。

「もし戻って来るような事があるならば…」

「いえ、そんな事は有り得ないのです」

「ですが、」

「松田さん」

彼がはっとした表情でこちらを見た。目は私の反応を恐れているようだ。
だけど大丈夫、きちんと理解はしているはずだ、浅はかではなく。そんな奇跡は起こらない。頭でもきちんと受け止めているはずだ。
だから、この悲しさが逃げ場を失くしたのだろうか。だから、彼がいない事実から逃げられないのだろうか。だから彼は、だから私は、

「余計な事を言い過ぎましたね、すみません」

「いえ何だって良いのです、もう」





(080529)
盲目に成りきってしまえれば。


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