sleep.06
□欠けた歯車の行方
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なにを何処で間違えてしまったのかなんて。そんなの一々考えていられないくらいには忙しさがあった。
もう戻れない時間を思い出すこともない。
旅路の中でたった一度だけ彼が作ってくれた味の薄い味噌汁も、絶えず周りを取り囲む見えない蟲たちの話も。
果ては、頭上に輝く星を見上げる時間さえ。
ただ今を生き抜くことばかりが念頭にあり続く。
……はずだったのだ。少なくとも今までは。
「そういう野暮な考えはそろそろ止めたらどうだ?」
「…え」
男の声がした。うっかりと油断していたのか、どうしてだか胸が高鳴って涙腺が弛む。
しかし振り向いた先には彼ではない男がこちらを見て鎮座しているだけだった。
背景には薬品と古びたがらくたが無造作に並ぶ。
彼等は友達とは言い難いが同類なのだ。随分と昔に本人たちから聞いたことがあったのをうっすらとした記憶として手繰った。
まだあの頃は幸せだったのに。
今となっては、付いてくるのは後悔だけでしかない。
「あいつが本当に戻ってくるのかは、俺には解らん」
「そんなの私だって解らない」
「まぁな」
「あの人の考えなんて。昔から何一つ」
ただ、彼が私を置いて消えてしまったあの時がきっと私たちの最後だったということは解っていた。それだけは、はっきりと。
しかしそれが何年前の話だったのかは解らない。
あれから私の時間は止まったままなのだ。動くにしても気を緩めればすぐにでも過去の思い出に舞い戻ってしまう。
そして彼がいない事実に怯えてまた泣き出してしまうのだ。
膝を抱えて。彼の愛した見えない蟲たちの真ん中で。
「お前を任せられたのなら、俺にだってそれなりに背負う覚悟はあるんだぞ」
「それってつまり…」
「俺の嫁に来ないか」
「あのさ、好きじゃないのに結婚とか」
「いや、俺はお前が好きだったよ。ギンコの隣で笑ってた時から今までずっと」
「……、」
それはこじつけみたいで好きじゃあない、と言い掛けて慌てて口をつぐむ。
優しすぎる青年の優しすぎる気遣いを危うく踏みにじる所だったかもしれないのに。馬鹿か。
その証拠に、少し考える時間が欲しいのだという主旨を伝えれば安心したように眉を下げられた。
しかし、それでも心をざわめき立たせるのは他でもなく彼だ。帰る見込みも、帰って来たとしても再び愛してくれる見込みもない。
(ギンコ。そういえば、その名前を久し振りに耳にした気がした。それほど遠くはない頃に呼んでいた名前。)
程なくして殆ど無意識に近いものだったのか口にした本人であるのにも関わらず、正面からこちらを見つめる目が歪んで揺らぐ。
つられてこちらも鼻の奥がツンと痛む。
「…なんて、無理な話だったかもなぁ」
「、え?」
「やっぱり嫁に来いなんて言えなかったんだよ。俺には」
泣きそうに笑う目の前の男は悪くなどない。
そもそも誰も悪くないはずなのに誰も笑えなくなってしまった理由すら解らないのだ。
今となっては。
(090504)
なるほど、どうやら喪失した彼が歯車の中心部だったようだ。