封神
□雷火
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目に見えるもの。
触れられるもの。
聴こえるもの。
世界の全てが不可思議で綺麗で、幼い頃から心惹かれていた。
すべてを解き明かすのに無我夢中で、逸れでも世界はなお廣く深く。気付けば永き年月の果て仙人になっていた。
物事を分解し、その理屈を理解し、己の手で新に造りだす。
この上無い充実した日々の筈ーーーなのに、何かが足りない。
それは、部品の外れた機械のように、心の片隅を転がって、カラカラと音を立て。
私を宝珠造りに駆り立てていた。
青峰山紫陽洞の朝は早い。
雀の囀りさえ届かぬ早朝に目覚めた清虚道徳真君は、いつも通り朝トレコースへ向かう。
地上遥か上空、ぽつりぽつりと浮かぶ仙界の浮岩も、運動神経のみで十二仙まで上り詰めた道徳に取っては只の足場。
常人で在れば震え上がるような不安定な道程を、軽やかな濃緑ジャージが翔ていく。
「っち!にぃ、さん、スポーツ!!」
健全な肉体には健全な魂が宿る。
そう自負している。
しかし、道徳は今、スポーツでは消せない悩みを抱えている。
否、その悩みは近年重さを増していて、道徳の内側から食い破る勢いだ。
こんな焦げ付く想いを道徳は今まで知らなかった。
それでも、悩みの原因に近付くことは止められそうにない。
普段は真っ直ぐな瞳を今だけ少し曇らせて、向う先は乾元山金光洞。ー則ち太乙真人が住まうラボの前で声を響かせるのだった。
「太乙〜っ起きてるかっ?今日も絶好のスポーツ日和だぞっ!一緒に朝トレしようっ!!」
まるで体操のお兄さんのような爽やかな掛け声だが、灰色のコンクリートに閉ざされた扉からは返事がない。
いつものことだ。
「まぁた研究で徹夜明けかぁ?…いっちゃん、入るぞ」
呆れた呟きを漏らしつつ、道徳は勝手知ったる親友…の洞府兼研究所へ押し入った。
人工的で無機質な試作品の山を掻き分け、コンテナの上で丸まる麗しの想い人の姿を見つけた。
ドクン。
幾ら走っても乱れなかった心臓が大きく波打つ。
無造作だった歩行が、太乙に近づくにつれ密やかになり、猫よりしめやかにコンテナへ飛び移っては、眠る傍らに片膝を突く。
穏やかな寝顔を見つめ、そっと溜め息を溢す。
道徳が太乙に惚れたのは約500年前。
あの日だけは何年経っても忘れられない。
『道徳、君と同期で仙界入りした太乙だよ』
師に連れられた少年は、長い髪と華奢な体躯のせいか、少しだけ年下に見えた。
下界でも兄弟が居なかった道徳は弟ができたようで、嬉しさを隠しもせず片手を差し出した。
『やぁ、初めまして!俺は道徳!特技はスポーツなんだ!!』
太乙は差し出された手に、戸惑うようにそっと触れ、握り返し
『太乙です。スポーツはあまり得意じゃないんだけど…宜しくお願いします』
信じられないくらい美しい黒耀の瞳を向けてはにかんでくれたのだった。
今、その瞳は長い睫毛の下に閉ざされている。あのときから少しだけ柔らかさを失い大人びた白皙の美貌。
触れたい。
欲求が抑えられなくなり、そっとグローブを外しては頬にかかった黒髪を払い除けてやる。
太乙は目覚めない。
離すことが出来なくなった指先が、艶やかな口唇を辿る。
「すー…ぅ」
空気を求めて薄く開かれた唇から真珠のように濡れた歯が覗き、道徳は思わず吸い寄せられた。
゛オイオイ、ヤバいって、止まれ俺ッ!
寝込みを襲うなんて犯罪だぞ?゛
頭の中で理性と良心が肉体の動きを押し留めようと藻掻く。
゛頼む…っ、起きてくれ太乙゛
眠る相手に心から切望し、拳2つ分の距離で堪える。
只の親友であればなんともない距離。しかし、500年近く片想いを続けてきた相手には酷く甘美で苦しい。
今までスポーツ一筋、色恋沙汰など無縁の人生を送ってきた道徳には無限地獄に思われた。
゛スポーツ、スポーツだ!何か考えて気を逸らせ!心頭滅却すれば火もまた涼しと云うじゃないか!!スポーツ、剣術、筋肉、ライバル!゛
普段は1割しか使用していない脳味噌をフル回転させて太乙から顔を離そうと試みる。
゛俺はやればできる男だ!!やるぞ、道徳!゛
1ミリ…5ミリ…1センチ…
ジリジリと距離が空く。
膿むほどの時間を掛けて、片手を伸ばして触れられない位置まで下がった道徳はほっと肩を撫で下ろし、額から滴る汗をタオルで拭った。
親友を失わずに済んだ安堵と、愛情を手に入れられない痛みが鬩ぎ合う。報われぬ想いにそっと奥歯を噛み締める。
「お前は俺のこと、どう思っているんだろうな…」
立てた片膝の上に顎を乗せ、暢気な寝息に耳を澄ます。
太乙は未だ目を覚まさない。
それどころか、
「う〜…んっ」
ごろりと寝返りを打った拍子に、白い喉元から鎖骨までが無防備にさらけ出され。
艶かしく蠢くその肌が視界を占めた瞬間。
ぶちん。
理性の、箍が外れる音を聞いた。