*retsu-go*
□願うはただひとつ
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「じゃあな、エーリッヒ」
手を振り、家へと帰っていく友人を見送った後。
シュミットはジーンズのポケットから取り出した封筒を見つめると、クシャリと握り潰した。
【願うはただひとつ】
「あら、エーリッヒくんは?」
キッチンから顔を出した女性は、玄関口に息子の姿を見つけると、不思議そうに瞳を瞬かせた。
そんな母親の仕草に微か笑いながら、シュミットは至極当然のことのように、たった今帰りましたよと告げる。
「やだ、本当…?てっきり今夜は泊まっていくと思って、夕食も多めに作っておいたんだけど」
しかもエーリッヒくんの大好きなモノばかり
残念そうに呟く母親に、シュミットは自嘲じみた笑みを浮かべる。
だがそれも一瞬のことで、再び相手の目が自分へと向く頃には、そんな様子は一切見せずにニコリと微笑んでいた。
「帰ってしまったものは仕方がないですし、今回は諦めて下さい。…あ、それから明後日のパーティー、エーリッヒは来られないそうです」
言い終わらないうちに二階の階段へと脚をかけたシュミットの背に、え?と尋ねる声がかかる。
「来られないって…」
「明日から旅行に出かけるみたいで、帰ってくるのは明後日の夜になるって言ってましたから」
「でも、…良いの?あんなに楽しみにしていたのに…」
「とにかくそういうことですから」
言葉尻を奪いそれだけ言うと、シュミットは思い出したように手の中の、クシャクシャに丸められた封筒をポイとくずカゴに放り投げた。
そうして今度こそ二階の自室へと戻っていく息子の後ろ姿を見つめ、女性は小さく溜息を吐いた。
パタンと後ろ手にドアを閉めると、シュミットはベッドへと直行し、身体ごとダイブした。
スプリングの軋む音が響き、次いで静寂に包まれた空気の中。
「くそ…っ」
と、不意に零れた声は僅かに震えていた。
瞬間、苛立ったように身体を起こしたシュミットの表情は、だがその態度とは裏腹に悲しみの色で染まっていて。
それは、先程まで友人と楽しんでいたチェスを目に留めた途端、蘇った記憶にさらに酷くなっていく。
***
『エーリッヒ。明後日の土曜なんだが、何も予定なんてないよな?』
目の前の、盤上で行われている攻防戦をじっと見つめたまま、先から悩み続けている幼馴染にクスリと笑い。
シュミットは腰掛けていたベッドに寝転ぶと、下から見上げた相手にそんな質問を投げかけた。
視線はそのままに、明後日…と呟くエーリッヒにシュミットは、あぁと幾分嬉しそうに頷き返す。
『実は、』
だが続けて口にするはずだった言葉は、何かを思い出したように小さく声をあげたエーリッヒに遮られてしまう。
『スミマセン…。明後日は用事があって』
『ぇ……ぁ、…そ、そうか。………だが、夜は空いてるんだろう?』
エーリッヒから返ってきた答えに一度はくじけるものの、再び尋ねたシュミットを喜ばせる答えは、けれど結局返ってくることはなかった。
『実は、明日から旅行に行くんですよ。なので今日も、夕方までには帰らなきゃいけなくて』
『いつ、戻ってくるんだ?』
『明後日には帰ってくる予定ですけど、何時になるか判らなくて』
スミマセンと呟いた後、日曜日なら大丈夫ですけど…と尋ねてきた親友に、だがシュミットはニコリと微笑み。
『いや、たいしたことじゃないし、予定があるなら良いんだ。今のは忘れてくれ』
『でも、』
『それより帰らなきゃいけないなら、コッチの勝負が今は大事だろ?もう打つ手は決まったのか?』
起き上がって盤上を覗きこんできたシュミットに、エーリッヒは慌てて意識を目の前のゲームへと戻すと、もう少し待って下さい…っと再び頭を悩ませるのだった――。
***
刹那、シュミットの口から、あ〜ぁ、と声が零れる。
「なんで予定なんて入れるんだ。日曜じゃダメなんだよ。明後日じゃないと、意味がないんだ…」
チラリと視線を向けた先――机の上に置かれたカレンダーには、明後日の日付に赤丸で印がつけられていた。
5月3日。
それは他の誰でもない、シュミットがこの世に生まれた、5年目の記念日だった。
毎年行われる誕生パーティー。
親類に、父親の同僚たち。
同年代の子供といっても、それほど親しいわけでもない、機嫌取りの人間ばかりで。
そんなパーティーに嫌気がさしていたシュミットは、けれど毎年嫌々ながら作っていた招待状も今年は早く作りたくて仕方がないほどだった。