短篇
□エスケープ
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「すぐに逃げりゃ良かったのによ。」
そう言って主人は放り出された紙袋をつまみ上げると、そこからジワリと溢れ出した黒いインクを見てああ、と合点がいったように彼女を振り返った。
「変なとこ意地張るな、お前は。」
紙袋の端を持って中身を見れば、粉々に砕け散った黒インクの入っていたであろう瓶と、黒く染まってしまった羊皮紙の束がそこに納まっていた。
「不甲斐ないと言いますか、面目もありません……。」
未だにその場から動けずにいた彼女は、持っていた荷物を抱えるようにして持ち直した。
怯えているのか紙袋がかさかさと小刻みに鳴る。
「間に合ったよな?」
凄まれた状態で、逃げるという選択肢は彼女の脳裏には浮かばなかったのだろう。
主人は彼女の様子を見下ろして、怒りにまかせて口をついた言葉に少なからず後悔して低く唸る。
確認をもかねてそう聞くも、彼女自身首をかしげてくるだけで理解していないのか、口元を片手で覆うと、一拍間をおいた。
「何を聞かれた?」
「いえ、特には。手荷物が多かったので、扉を開けてくださって、それで、えーと、荷物を。」
「それでありがとうか?」
「……、ご主人様?」
「お前が部屋来た時に、それなりの格好をして行けと言ったな?」
使いに出る前に、主人が彼女に言った言葉だった。
行き先は顔見知りの場所でもあったが、使いとしてではなく友人として顔を出す必要があった。
他の者も出入りがある場所だったこともあり、彼女が不自由なくその場にいることを認めさせるためでもあった。
時として身なりは周囲の目から守るものにも成り代わる。
主人の友人は彼女の身分がそれであったと知っていても気にするような者ではなかったが、客人として招かれている他人からはどう見られるか解らない。
本人はまるで気にしている様子は見せなかったが、心にも無いことを不意に言われて傷つくことの無いようにとの、主人からの配慮だった。
「はい、ですので今日はそれなりの格好を……。」
普段は薄い化粧も気持ち華やいで見えるのは、この男自体、使いにやったためだとわかってはいるのだが。
「あんなのに捉まるために、お前にその服を仕立ててやったわけじゃない。」
「すみません。」
どうも腹の虫の収まりどころが悪く、口をつく言葉は困ったことに心配を向ける相手へと向いてしまった。
「着飾るのも少し抑えろ、じゃ無かったらあいつのところにはもう行くな。」
「そう申されましても……。」
困ったように笑った彼女を見て、少し落ち着きを取り戻し始めた主人は、走り去った男の後ろ姿を思い出して、手に持っていたインクまみれの紙袋を近くにあったゴミ箱に力任せに放り投げた。
鈍い音を立てたそれを背後に、何事も無かったかの様に主人は彼女の持っていた荷物を取り上げる。
その動作に驚いた彼女を呆れたように男は見下ろした。
「無防備だって言ってんだよ。さっさと帰って来い、待たせるな。」
怒った口調でそういいつつも、主人は困り顔だった。
彼女が彼に仕えてから、そう長くは経っていないが、口調の割には身を案じているということを理解していた彼女は、安心したように主人を見上げた。
「以後気をつけます。」
「ああ。細心の注意を。」
それから車に荷物を押し込むと、待機していた運転手に家に先に戻るように言い渡した男は、立ち尽くしていた彼女の元へと戻ると、さっさと前を歩いていってしまう。
「あ、あの。お車は?ご主人様お車をご購入なさったのですか?それに運転手――」
「いや、商談相手のとこのだ。」
「ご一緒にいらっしゃったんですか?」
「いいや?あいつは馬車で帰らせた。」
「???」
車できた理由も、商談相手が馬車で帰ったことも知りえない彼女は、腑に落ちない顔を主人へと向ける。
「そいつが言ったんだよ、今日はめかしこませて外に出したのかって。」
「はあ。」
「あいつと何度か面識があったな?」
「はい。お出迎えやお見送り、あとお茶やお菓子をお出しした時くらいですが。」
「使いにやる時は気をつけたほうが良いって言い出しやがってな。」
商談中にかかってきた電話、彼女が帰っていったという連絡だったのだが。
それを見ていた商談相手は、男を試すかのように笑うと、巷で被害が出ている話を淡々とし始めた。
「お前を待ってる間中ずっと不安を煽るようなことばかり言いやがるんだ。おかげで手が付けられなくなった。」
語尾は消え入るようなものだったが、その言葉と薄ら赤い横顔に思わず笑みをこぼした彼女は、商談中の主人の姿を想像する。