短篇
□春一番
1ページ/1ページ
「やっと見つけました、そんなところにいたら風邪を引きますよ」
突風の中、ただ耳をかすりひゅぅひゅぅと音を鼓膜へと届ける風……。
それ以外に聞こえる音なんてここにはなにもないと思っていた。
――春一番
「……」
彼がそう口にした言葉は確りと耳に届いていたはずなのに、私は何も返さなかった。
高い木の上ではバランス感覚を忘れてしまっては落下するしか無いので、声を掛けてくれた彼に顔を向けようものなら、うっかりなんて事がありそうで、そのまま遠くへと視線を向けたままそっけなく返事をすることにした。
「いい香りがするんだ」
「お腹すいてるんですか?」
「黙れブス」
「ぶ、すいません冗談です」
また風独特の音だけが耳を占領する沈黙。
「お前なんか嫌いだ、あっちいけブス」
「はあ、そう仰られましても……」
生返事をした男に腹が立っていた。
これと言って彼が何をしたというわけでは無いのだが、どうしようも出来無い憤りが胸中を占めて、机の上に広げていた教材をすべてひっくり返すと、その部屋をわっと飛び出してしまった。
何をやっても最近うまくいくことなどひとつも無く、男の顔を見ることすら虫唾が走り、誰にも邪魔されることの無いこの木の上へとよじ登り、ぼうっと風に当たっていた。
顔にかかる髪をよけると、よりいっそう強い風が抑えようとした髪をかき回していく。
世の中ではこの突風を春一番と呼ぶらしい。
この風が吹くと、春の足音が聴こえるのだと皆楽しそうに囁きあう。
「勉強なんか楽しくもなんとも無い。風に当たれば幾等か気分もまぎれるものかと思ったんだが」
「まぎれませんか」
「まぎれませんでした」
男の言葉をそのまま返すと、彼が満足げに笑った声が聞こえてきた。
それがまた無性に腹立たしくて、木にしがみつくようにして言葉を続ける。
「体は重いし、でも心臓は変わらずに動いてるし、止まってしまえば良いのにと思うものは動いてる癖に、動いて欲しいものは止まりっぱなしで」
「はい」
一定の強い風がまた弱まって強くなって、木が前後に強く軋む。
右にあった幹にまわしていた両腕に体を預けると、下に居る彼へときっと睨む様にして顔を向けた。
「下を向いたら風に飛ばされますよ」
「向かなきゃあんたの顔がみえないじゃない」
「この顔に虫唾が走ったから家を飛び出したと聞きましたが」
そんなことを言いながらあなたの眉間が少し歪んだのを、心地よく思う。
ようやくいやそうな顔をして安堵したとも言えるかもしれない。
「勉強がいやなのはわかりますが、逃げ出す理由をいちいち考えられてはこちらとしてもあなたを捕まえる理由を考えなければなりません、それに顔がどうのと言われてもこれは生まれつきなのでどうすることもできません」
「整形しろ」
「ご勘弁願います」
「ならば休憩を所望する」
「ならそうと最初から言ってください、それは考慮します」
「うそ臭い」
「心外な」
「もう勉強しすぎて頭がイカレそうだ」
そう返せばさらに深まった眉間の皺が、先ほどまでは見受けられなかった怒気をはらんでまるで鬼の形相のようになった。
今居る場所から振り落とされる事よりも、あなたが怒っている方が恐ろしいなんて、とうとうイカレテしまったかと思っていた時だった。
「ならば好きなだけイカレると良い」
彼は風の音に殺されてしまいそうな程の小さな声量でそうぽつりと言葉を口にした。
「イカレテ、壊れて……、どうしようもなくなったら助けて差し上げましょう」
かちっと合間った双眸は、思ったよりも強すぎて。
「イカレテしまう前には助けてくれないの」
そう溢せば彼は笑った。
「私の仕事は貴女の家庭教師ですからね、どうなろうとも見捨てはしませんよ」
「それが仕事だから」
「ええ、まあそうなりますかねえ」
歯切れのわるいその答えに、理由は他にあるのだろうかと考える。
真っ向から吹き付ける強風は、独りの足では踏ん張れないかもしれない。
いつかがりがりと周りに削られて、塵となって何処かへと拐われてしまうかもしれない。
それでも構わないと思っていたのに……。
そう思った瞬間から、目に映る風景に春の色が訪れた気がした。
「部屋に閉じこもってばかりいるよりは、活発なお嬢さんの方が私は好きですよ」
「いってろ戯け」
「お屋敷でつらいことがあろうとも、貴女は貴女です。自信を持ちましょう、さあどうぞ」
そう言って木の枝に座ったままの私に手を差し出した家庭教師は、無防備にもそこから飛び降りた私の下敷きとなって右の足首を捻挫した。