短篇

□舟はハシリ、カイは謡ウ
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頭上にある太陽は、いつの間にか傾き始めていた。
さあ、夜が始まる。









舟はハシリ、カイは謡ウ
―遠く、遠くSidE:→B―









昼にざわめく雑踏とは違った賑やかさで、川縁には人がゴッタガエシテイタ。
向こう岸は見えようとも、底が深く到底歩いてなど渉れない。
ならばと泳いで渉ろうとしても、急流なためとてもじゃないが無理な事だった。

そんな場所に居付いた青年がひとり。

彼がここで舟渡しを始めたのはいつだろうか。
どんな者に聞こうとも、彼のことを知る者はいなかった。

彼は無口で表情が無く、彼が口を開く事と言えば客としてこの場へと訪れる者と言葉を交す、川を渉れるかどうかの交渉位だった。
客は青年へと懇願し、青年は彼の足元へと膝を付く客に目を落とす。


「この向こう岸には楽園があると聞いた、私を其処まで連れて行ってはくれないか?」

「この川は蝋燭がないと渡れないんです、貴方はその蝋燭を持っていますか?」


青年の声は消え入るように小さく、川の流れる音や向こう岸に渡りたいとここへ来る者達の話声でいつも掻き消されそうだった。


順繰りに回る途切れの見えない客の数。
しかし大体のものが蝋燭を持っていないという理由から、川を渉れず足止めをくらい行き先を見失う。
数日経つと行き先の見出せない者たちは、いつの間にか何処かへと姿を消すものが大半で、それ以降の所在を知るものはいない。

川縁はそんな場所だった。
そんなある日のこと。

川を渉ろうと集まる人々のなかを、小さな女の子が一人。
薄暗い闇の中から小さく火のともる蝋燭を持って青年の目の前に現れた。
今にも消えてしまいそうな火は辛うじて夜の闇に存在する青年の顔を下からぼんやりと照らした。
人々で溢れかえるその場では、蝋燭を持っていない者たちの目が怪しく光る。


「どうしたんだい浮かない顔をして」


青年は女の子を蝋燭を所持し得ない雑踏の中から手招くと周囲を一瞥し、珍しく彼は自ら口を開いた。


「お母さんに言われたの」


手招かれた女の子は、青年へと近づくと息をつめて蝋燭の灯りに照らされた無表情な顔を見上げた。
膝をつき女の子に目線を合わせた青年の顔と、蝋燭を大事そうに持つ眉根を寄せた女の子の顔を、小さく揺れた蝋燭の灯りが照らす。


「キミは蝋燭を持っている、この川を渉ることが出来るよ」

「お母さんに言われたの」


青年が声を掛けるたびに、女の子は同じ言葉を何度も何度も飽きずに繰り返した。
その言葉に青年は質問を変える。


「なんて言われて此処へ来た」

「お母さんに言われたの」

「キミは馬鹿じゃないだろ、言葉は理解しているはずだ」

「お母さんに、言われたの」

「……」


青年はそれでも表情を表に出す事をせず、女の子は目にコロコロした雫をためて。
お互い一歩も動かずに居れば、動き出したのは雑踏たち。


「アカリヲ……、灯りをヨコセ……。」
「今なラまだ……、間にアう」
「貴様ナンゾに向こう岸へトわたらせるモノか」 
「わタせェ」
「私ノ方が其れをウマク使いコなセル」
「お前は未だ渉るべキではない」


口々に騒ぎ立てる腹の底からの声に、女の子は身をすくめた。
数滴の雫が灯りの中へと飛び込み、火の強さは此処へ来たときよりも弱々しく揺らめく。


「キミは何て言われてきたのかは僕には分からない、でも此処を渉るか渉らないかはキミが決めることだ」







早くしないと、その火もじきに……







「消えてしまうよ」

「道が分からなくなってしまうよ」

「そうしたらキミは暗闇で――――」

「一人ぽっちじゃないもん!!お母さんあっちで待ってなさいって――」


すると青年は女の子をふわりと抱き上げて小さな舟へとその体を乗せ、櫂で舟を縁から漕ぎ出だした。
騒ぎ立てる雑踏の声が、耳に木霊し女の子の小さな背筋を冷たく冷やす。
青年はそれを気にもとめずに櫂を一定の速度で動かし、舟を闇の中へとどんどん進めていった。

雑踏の声もまばらになり始めたころだ。


「いいかい、蝋燭をしっかり持ちなさい」


青年は闇へと声を張るように女の子に言葉を掛け始めた。


「其れはキミの事を先へと導く光なんだ、うまく使わなければ不安や悲しみで火力は減り、嫉みや憎悪で其れはキミを闇へとイザナウ」


女の子は黙って火を今渡り流れる川の暗闇へとかざし、青年の声へと無言で耳を傾けた。


「しかしキミは強い人だ、この舟に乗ることが出来たその証に、ほら蝋燭の灯りが踊りだす」


蝋燭の上にちろちろと燻っていた小さな光は、一度大きな火の柱となって空に火の粉を散らし、周囲を暖かく染め上げた。
そうして暗闇に光をオトシタ後、今度はしっかりと存在を示すかのように、蝋燭の上でゆうらりと静かに揺蕩う。
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