短篇

□舟はハシリ、カイは謡ウ
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「キミはもうじき向こう岸へとたどり着く、あちらは極楽だと聞いた」

「お兄ちゃんは向こう岸へはいかないの?」


不意に後ろを向こうとした女の子を青年はそっと背中を押し、振り返る事を制すると、櫂で大きく水を漕ぎながら、正直に偽ることも無く答えを女の子に与えた。


「僕もキミと一緒だ、待ち人がいる」

「薄暗いあの場所で待ってるの?」

「僕にはこの仕事もある、あの場を動くわけにはいかない」

「その相手はどんな人?」

「向こう岸に憧れを抱いていた人だった」


この川を渉るものたちは、必ずしも向こう岸へと憧れを抱く。
望み、欲してこの舟に乗ろうとする。
しかしその気持ちが過剰だと舟は水の上をいくら漕いでも滑らない。


「女の人?男の人?」

「女だ、幼馴染だった」

「お兄ちゃんが向こう岸に連れて行ったの?」

「彼女がそう望んでいた」

「どうして一緒にいてって言わなかったの?」

「留まるよう促しはしたさ、だが彼女の意思は強かった」

「ねえお兄ちゃん、あの場所はいつから――」

「……」



そのとき女の子の目の前には煌びやかな向こう岸が広がった。
はっと息を呑む女の子の小さな背中を見た青年は、女の子には気が付かれない様そっと暗い闇に包まれた空を仰ぎ見た。


「もしその女の人に会ったら、お兄ちゃんのこと伝えとくね」

「……、会えるかどうかは分からんがな。そうしてくれ」


青年の手は櫂を動かし、水を蹴り続ける。


「じゃあもし私のお母さんが蝋燭を持ってお兄ちゃんに会いに来た時には――」


「すまないがそう伝えることは出来ない」


女の子の言葉を遮って、声は二つ重なって闇に吸い込まれていった。
小さな沈黙が落ちる。
お互いがお互いに口を開かないでいるとそこに住む者たちの声なのだろうか、にぎやかな人々の会話や音楽が聴こえてきた。
今まで青年と女の子がいた場とは正反対の岸が現れる。

見るからに暖かいその場所は、女の子を手招くかのように光り輝いていた。


「お兄ちゃんは人を送るたびにこの光を見ているの?」

「意識せずとも視界にはいるよ」

「お兄ちゃん……    ?」


「……いいや、この舟渡しをやっている限りそうは思わないだろうよ」


女の子を向こう岸へと下ろしてやった青年は、これからどうすればいいかを粗方説明した。
強く頷いた女の子を見送った青年は再び闇の中へと目を凝らす。

舟に乗せる客は増えも減りもしないが、"あの時"の岸はこんなにも暗かっただろうか。
女の子の姿と幼馴染の面影が重なる。

サイゴに彼女が溢した笑顔は強い意志と覚悟とそれから……。
何度往復したか、其れは不確かな記憶だというのに、記憶に新しい女の子は彼女の笑顔をよみがえらせる。

青年が再びあるべき岸へと戻ろうと、"向こう岸"に背を向けた時だった。女の子の声が青年の背中にかかる。
その言葉はお礼と再開の約束。
青年は手を上げ女の子に答えた、再開できませんようにと願いながら。
女の子は言葉の無い青年の挨拶に満足したのか、今度こそ人混みの中に見えなくなった。





















上げた手は、闇の中を突き進む人たちの為に。
消えた青年の笑顔は、めぐり廻った彼女の為に。
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